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ユンケルと《熊野》

明治三十三年(一九○○)東京音楽学校に入学した柴田環は、声楽を最初幸田延に、次いでアウグスト・ユンケルに学んでいる。

ユンケルは一八七○年にドイツのチュヒェンで生まれ父からヴァイオリンの手ほどきを受け、一八八一年ケルン音楽院に入学した。在学中ヨアヒムの推薦学生として研鑽、十六歳で独奏者としてデビューしている。

一八八七年に卒業して数年間ドイツ国内で活躍したが渡米し、一八九一年ボストン・シンフォニー・オーケストラの主席ヴァイオリン奏者となる。

一八九三年シカゴ・オーケストラ(後にシカゴ交響楽団と改称)の独奏者に迎えられ、五年間在任した。

一八九七年世界周遊の旅に出た彼は一八九八年横浜に着き、英国人の経営するリーディング商会で音楽書や楽譜の販売をする傍ら演奏活動を行い、翌一八九九年四月幸田延の推薦を受け、東京音楽学校のお雇い外国人教師となった。

ユンケルの受持は管弦楽、声楽、和声学、作曲法、合唱とピアノを除く本科実技科目の全般にわたるもので、西洋音楽の確実な導入を求める当時の風潮として彼の技量が高く評価されての結果である。

本科在学中、彼から声楽を学んだ環はその指導法について次のように回想している。

ユンケル先生は声楽家ではないが、声楽を教えた。だから発声法などはわからないから教えない。私の発声法は、音楽学校では教わらず自分自身で工夫してひとりで会得した。

〈略〉声帯を無理しないからいつまでも美しい声でうたえるのです。こうしてユンケル先生に声楽を教わったのですが、それは楽曲の解釈とか、ドイツ語の発音を教わったのでした。

声は天性のものであるとは環の持論である。声楽はある程度以上の天分ある者でなければ駄目だという。

環は自身の咽喉に負担をかけない発声法を自ら習得したもので、どんなに長時間歌い続けても疲れを感じない。彼女が役柄上、泣いたり笑ったりして歌う《蝶々夫人》を二千回も上演できたのは自分の声帯に無理を強いなかったからであるという。

そして《蝶々夫人》は咽喉の軽業師といわれるぐらいで、声帯の技巧を必要とするコロラトゥラ・ソプラノのプリマドンナには荷が重いとして、《蝶々夫人》で喉をつぶしてしまったファーラー(一八八二〜一九六七)やガッリクルチ(一八八二~一九六三)の例を挙げている。