帝劇での《カバレリア・ルスティカーナ》は原語のイタリア語で抄演されたが、このサントッアとトリードの環とサルコリーによる二重唱の部分はスタジオでのピアノ伴奏でレコード化され、のちに発売されたが、このレコードがわが国洋楽レコードの第一号となる。(25)

レコードではサルコリーと環との二重唱はバランスよく吹き込まれているため、声量の比較はできにくいが当夜の会場での感想を文献で尋ねてみると佐藤紅緑(一八七四〜一九四九)は

「ザルコニーの相手としてあまりに懸隔が甚しかった」

といい、有島生馬(一八八二〜一九七四)は、

「脇で見てさへ息苦しいほど夫人は悶き努力して雷鳴の様なテノーレに敗けまい敗けまいとした苦心が、一符一律をして緊張した芸術たらしめた」

と記している。(26)(27)

アドルフォ・サルコリーは一八六七年にイタリアのシェナに生まれた。サルコリーが環に語ったところによると、初めマンドリン工場で働いていたが、声が良くてとうとう本職のオペラ歌手になったという。

プッチーニの知遇を得て新作のオペラ《ラ・ボエーム》のテナー役ルドルフォを演じ、コロラトゥラ、ソプラノとして盛名を馳せたテトラッツィーニ(一八七一~一九四○)の相手役をつとめ、また後に世界的テナーとなったボンチと覇を競うほどの歌手であった。

一九一一年秋、上海公演のため来清したが、折悪しく辛亥革命が起り出演日程がたたなくなったため、一時日本に避難する目的で来日した。

同明治四十四年十二月六日の帝国劇場での東京フィルハーモニー会大演奏会で華やかな来日デビューを実現させた。

ここでサルコリーはポンキエルリの《ジョコンダ》から〈空と海〉、プッチーニの《蝶々夫人》から〈愛の家よ、さようなら〉さらに《トスカ》の〈星は光りぬ〉などを歌って大喝采を得、アンコールに《リゴット》からの〈女心の唄〉などを歌って応えた。

当夜の演奏評は、

「上出来たるは論を俣たず……其の唱ひ振りと言ひ、ジェスチュアと言ひ実に申分のない演奏だった」

とし、総じて他の奏者には難をつけた評者もサルコリーについては「実に敬服の外はない」と絶賛している。ここにイタリアの本格的なべルカント唱法が初めて聴衆に紹介されたのである。

サルコリーは帝劇と契約して同十五日からの十二月興行で、柴田環とマスカーニの《カバレリア・ルスティカーナ》を抄演したのは前述のとおりであるが、その舞台写真から彼の堂々たるスターぶりをみてとることができる。(28)

時に柴田環二十八歳、サルコリーは四十五歳であった。翌明治四十五年三月にはサルコリー主催の声楽大演奏会が帝国ホテルで催されるなどその後も多くの演奏会に出演して彼のレパートリーの広さとベルカントの魅力をあますことなく披露した。

サルコリーは環の帝劇辞任のあと、原信子を伴って上海のヴィクトリア劇場に出演している。

また、本国からプッチーニの新作《西部の娘》への出演依頼などもあったが、日本での相次ぐ出演とユンケル、ウェルクマイスターらの慰留もあり帰国を断念して、その後一時帰国した時期を除き日本に定住することになる。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。