女優論

環の言うこの「可愛らしさ」とは、小児のもつ可愛らしさとか性差による可愛らしさというよりは、より本質的な愛らしさとか愛さるべき容姿を意図している。

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そして環は、この可愛らしさの神聖を守護するものは婦人の威厳であると言っている。

彼女がみる日本の男女の風俗は女が男に何ごとも哀願することであり、これが日本婦人の特質、美点とされてきた。

しかし、今は人妻となれば奥様と言われて男子との交際から遠ざかっていた時代は去って、男性と女性は同じ交際上裡に立たねばならない。

ところが日本の男性は女性に対する丁重さ、つまりギャランティが欠けているのであるから特に婦人には威厳が必要であると強調する。

比の「威厳」なる甲冑が、果して充分堅固なるか、はたいくらか弱所があって、男性の女卑心には打ち破らるゝ点がありはせぬか、などと思ひますと遠慮なく云へば女優諸子は敢て「愛顧者」を求めずして「神々しき威厳」を以て、世俗に当り、芸術の忠臣たらん事を希望したいのですが、こんな理屈めかしき事が「可愛らしき女優方」のその「可愛らしさ」と一致が出来やうかなどと時々思はぬ事もありません。

以上が女優一般についての環の見解であるが、環自身についての自戒の言葉とも受け取れる。

現に、帝劇一期生の森律子は帝劇重役で劇作家の益田太郎冠者(一八七六〜一九五三)を環のいう愛顧者つまりパトロンとしていたこともあって常に優位にあり、ミス帝劇の地位を誇示し得たのである。(21)

律子のような華やかな立場にならなくても何らかの後援者を希求する気持は、女優の誰にもあったから常々「芸術に殉ずる」ことこそ真の芸術家たり得るとの信念をもっていた環の素直な心情が誌上を借りて吐露されたことになる。

離婚以来とかく風聞の絶えない環であるが世評を超越した芸術家としての威厳ある女優論を展開したのである。このような理念のなかで自由な男女交際の在り方を容認し、もちまえの円満自在で愛嬌のある彼女の才媛ぶりと如才なさがプリマドンナの条件を成熟させていく。