「どうぞ、こちらへ。珈琲でよろしいですか」

深々としたソファに腰を下ろしたとき、一瞬バランスを失いかける自分が情けない。このリビングなら二十人ほどのパーティーは余裕でできそうだ。外界との境界を見失わせる広く透明な大窓からは、テニスでもやれそうなルーフバルコニーが見える。見渡す限り、何もかもが異次元の世界だ。それは川島が今や別世界の住民であることを物語っている。

「お元気でしたか?」

西脇美和が珈琲を運んできた。

「ええ、まあ」

「創作はいかがですか?」

パーティーの時と同じく愛くるしい笑顔を浮かべて西脇美和が訊いてきた。

「それがなかなか。島崎さんの眼鏡に適う作品が書けなくて」

「でも、島崎は芹生さんのことをとても高く評価していますよ」

「そうでしょうか。島崎さんにとっては時代遅れの純文学オタク程度にしか見えないのでは」

「とんでもない。今日の文壇で、あそこまでの文章力を持っている若手作家はいないって言っていますよ」

「そうですか。そう思っていただけるなら光栄です。でも、文壇だなんて。自分はまだ作家にもなれていません。何も出版されていませんから」

「きっとすぐになれますよ、芹生さんなら。わたしのような駆け出しの編集者が言うのはおこがましいですが、ふふ」

と言って、西脇美和はまだ無邪気さの残る笑みを浮かべた。彼女の生まれつきの愛嬌が心を和ませ、この耐え難い状況で救われた気分になる。そしてこの、ただ愛くるしいだけではない愛嬌は、時には男を錯覚させるような気がした。

そこへ、「やあ話がはずんでいるね」と川島が登場した。

「元気にしていたかい。芹生」

「ああ。俺は変わらないよ。でも、相変わらずすごい執筆ペースだね」

「わたしにとっては特別なことではない」

川島は余裕の笑みを浮かべた。

「美和くん。少し二人だけにしてくれないか」

「はい。ではご用があったら声をかけてくださいね」

と言って西脇美和は引き下がった。彼女が去ったとたん、空気が一気に重みを増し、圧(おし)潰されそうになる。

「で、決心がついたということだね」

「ああ……そういうことだ」

「一つ教えてくれ。どうして気が変わった?」

訊かれたくはないが、訊かれて当然だった。今さら恰好をつけている場合ではないが、何か適当な答えがないものかと思案していると

「答えたくなければいい。でも、沙希ちゃんの実家が大変だってことは耳にしてるよ」

川島は見抜いていた。

「ということは生活のためだね。今回引き受けた理由は」

俺は無言で頷いた。

「分かった。生活をかけてやるといことなら話は早い。それなりの覚悟で取り組んでもらう。まずは契約を交わそう」