(九)

次の日、本当に香奈は八荘源目指して旅に出てしまった。もちろん学校は無断で休んで、お金は貯金を十万円引き出した。

「二、三日留守にします。心配しないでください。香奈」

こう書かれた書き置きを机の上に残してある。パパやママは心配してるだろうな、と、信越線に乗るときチラッと香奈は考えた。だが、電車が動き出すと心地のよい律動と共に、家のことはすっかり忘れている。

八荘源についたとき、いまさらのように香奈は遠いところにきてしまったと思った。空は高く澄み上がり、山の稜線の上に秋の雲が大雑把な筋を描いている。いつも眺めている風景より大きくてとりとめがない。こんな広いところで、夏にセミナーが開かれていたのはどこですかなどと聞いても、笑われるのが落ちだろう。

ハイツでバスを降りた香奈は、小林や中条が来ていたのはどこだろうといろいろ歩き回ってみた。南八荘源の別荘地には、秋の今ごろはほとんど誰も来ていないのだろうか。草が茫々と生い茂って、閑散としている。

別荘地の横には、ペンション村が広がっていた。テニスコートに落ち葉がたまっている。すれ違う人もほとんどいない。

小一時間ほど下り道を歩くと、畑が点在する村に出た。そこには小さなスーパーもあった。香奈は飲み物を買ったついでに思い切ってレジのおじさんに聞いてみた。

「あの、夏の頃、このあたりでセミナーを開いていたグループのようなものはありませんでしたか」

はじめ、そのおじさんは香奈の言っている意味がよく分からないようだったが、何回か聞き返して意味が分かると笑い出した。

「セミナーって、勉強会のようなものかい。そうだね、覚えてないなあ、アルファってペンションに天文観測に来る学生さんのグループとかはいるけどねえ。いちいち何してるかなんて聞かないからねえ。悪いけど、分からないね」

香奈はぺこりと頭を下げると、顔を赤くして外に出た。まさに、砂漠に落ちたらくだの毛を捜すようなものである。よく言っても、広い運動場に落としたコンタクトレンズを探すようなものだ。大きな横断幕を下げてセミナーやりますなどと言うようなイベントではないのだから、土地の人だって知るはずはないのだ。

香奈が歩き出すと、後ろから声をかけられた。農家の人らしい中年の女性だった。

「あなたセミナー探してるって言ってた?」

「ええ、そうですけど」

振り返ってびっくりした顔をした香奈に、

「それかどうか分からないけど、ここ二、三年毎年夏になるとやってきて、瞑想したり、畑を耕していたりするグループはあるよ」とその人は言った。

「宗教関係じゃないかって、地元では少し気味悪がってるんだけどね」

香奈は一寸考えたが、中条や小林が行ったのが、そうしたものだとは思われなかった。

「有難うございます。でも、違うみたいです」

「そう、おせっかいなおばさんだから、許してね」

そういうとそのおばさんも立ち去っていった。結局何も分からない。香奈は今来た道を上っていった。今日泊まるところを探さなければならない。

迷った挙句ハイツに泊まることにした香奈は、夕食までの間に、今度は山の方へ登っていった。落ち葉を踏み分けせっせと歩く。こうして単調にからだを動かしていると、頭が空っぽになって、心地がよい。でも、小林と歩いていたときのことを思い出すと、なんだか切なくもなる。思いつめたように三十分も登っただろうか。突然視界が開けて、夕暮れの山並みが一望できるところに来た。

なんてきれいなんだろう。

香奈は足をとめて、夕暮れの風景に見入った。八荘山の向こうに夕陽が落ちていくところだった。

山々は藍色に染められ、ざわざわと風が吹いている。

ふと足元を見ると、積もった落ち葉の中にとんぼが何匹かミイラのようになって死んでいた。このあたりはとんぼの多いところなのだろうか。香奈はその一匹を手のひらに掬い上げると、じっと見入った。透き通ったような羽の筋は今では干からび、目は虚空を見ている。ふとみると、足が二、三本取れて妙にグロテスクである。風がさーっと吹いて木々のこずえを揺らし山鳴りがする。

そのとき香奈は後ろに声を聞いた。

「寒いですね」と声は言った。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『百年後の武蔵野』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。