九月の新学期(注・二年生)になって学校にまいりましたら、音楽の先生が新しくいらっしゃいました。上野の音楽学校を卒業された杉浦チカ先生でした。当時はまだお嫁にいかれないので吉沢先生と申上げていましたが上野を出たての新しい音楽の先生というので、たちまち私どもの生徒の憧れの的となり、吉沢先生、吉沢先生と大変な騒ぎかたでした。

その憧れの吉沢先生が私の歌うのをお聴きになって、「柴田さんはなんて綺麗な声でしょう。そして音程がしっかりしている。あなたは生れつき音楽の才能を身につけています。あなたは上野の音楽学校に入って勉強なさい。きっと日本で一流の音楽家になれます」と褒めて下さいました。

幼稚園(注・明治二十年創立富士見小学校附属富士見幼稚室)の時、植村くに子先生(注・明治三十四年十月新潟女子師範学校へ赴任)に褒められて以来、褒められることは馴れっ子になっていたし、私の声が美しいことも自分で自信を持っていましたが音楽家になろうとは思っていませんでした。けれど吉沢先生にこう褒められたので私は初めて音楽家になる決心をしました。

以上は昭和二十年、環が六十二歳の折の回想である。昭和十一年に婦人公論記者に語った談話では「私の音楽の才能は杉浦チカ子先生によって認められ、しきりに上野の音楽学校入学を勧められたものである」となっている。(※6)