第一部 生涯と事蹟

第二章 音楽学校時代

二 柴田環の入学動機

杉浦チカ(一八七六~一九六八)は明治三十一年七月に東京高等師範学校附属音楽学校専修部(本科)を瀧廉太郎、栗本清夫、石野巍、安達カウ等と共に卒業している。後には東京音楽学校の教壇にも立った人で在学中からその才能を評価されていた。(※7)

環が杉浦チカの勧めで東京音楽学校に入学したことは確かであろう。彼女が明治四十年音楽学校の助教授に昇任した時、杉浦チカは既に助教授として唱歌を担当していたのであるから、先生でもあり、先輩の同僚でもあった彼女の名前を環が間違える筈はない。

ただ、吉本明光筆記の自伝に、「まだお嫁に行かれないので吉沢先生云々」とあり、吉沢先生の名前が数回続出するので多少の疑問を持つことになる。杉浦チカは旧姓高木チカであり、音楽学校在学中の学友会演奏会も高木チカ子で出演、卒業者名簿にも旧姓高木チカとなっている。

最近書かれた環の伝記の中にも吉本筆記を敷延し吉沢先生としているものもあるので、この点は後日、東京女学館職員録や杉浦チカ履歴等の調査を俟って吉沢なのか、高木の記憶違いか、あるいは聞き違いによる書き誤りであるかを確かめておきたい。(※8)<※1>

<※1>
高木チカは明治三十一年九月から明治三十三年九月まで東京女学館に授業補助として在籍したことが判明。明治四十三年着任の吉沢幸子が東京女学館に在籍していた。震災焼失のため、当時の人事記録はなく吉沢氏の履歴は不明(東京芸術大学百年史編集委員会橋本久美子氏及び東京女学館百年史資料室元木光雄氏による)