近隣の基地の探照灯(サーチライト)が数本の光の交叉線を描いて忙しく暗い夜空を照らしていました。敵機の機影を照らし、高射砲の標的とするためです。

夜になると灯火管制となります。家々の電灯を暗くし、外に光が漏れないようにするのです。

見回りの人がいて、家から光が漏れていると厳しく叱られました。近くに製薬工場があり、時折そこを狙ってアメリカ軍機より機銃掃射があるのです。

製薬工場近くの民家に機銃弾が貫通した壁を見に行ったこともあります。空襲警報が鳴り響くと、防空頭巾をかぶり、隣の家の床下に入りました。

その床下は子供が立っても頭がつかえないほど高く、電球を床下空間の天井に吊し、蓆(むしろ)を敷いて夜を明かしました。我が家のみならず近所の人たちもこの床下に入ってくるので、子供たちは蓆に寝っ転がったり、ひそひそ話をしたりで、空襲の恐怖の中にも楽しさがありました。

このような戦火の中、私は中耳炎になってしまいました。右耳の後ろが腫れ、耳鼻科で手術を受けることになりました。

子供ですから、暴れないように手術台に体も手足も括り付けられ、泣きながらの手術でした。父が出征中だったので、母も心細かったのでしょう、下関にいたおじさんを呼び、手術に立ち会ってもらいました。

病室の二階の窓からも米軍の爆撃の音が聞こえ、煙が上がっています。母は布団を頭からかぶり、「死ぬ時は一緒に死のうね」と悲痛な声を上げました。

この病院の院長は、空襲になると軍服を着て軍帽をかぶり病室を見回りました。自分を手術してくれた先生が軍服を着ていることが私には不思議でした。

焼夷弾の落下による火災が起こらないように、病室の天井板は剝がされていました。天井の板を剝がすなんて、なんでこんなバカげたことをするのだろう、と五歳の私は不思議に思っていました。私は畳に寝かされた状態で、丸太の梁がむき出しになった天井を見上げているばかりでした。

※本記事は、2017年11月刊行の書籍『霧中の岐路でチャンスをつかめ』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。