しかし、対して為される反論の多くは発言に自粛的にタブーを抱えていたり、一義的ゆえにハッキリとした強さ(バックが人工知能なのだから)に圧倒され、やや釈明じみた歯切れの悪い迷いがあったり、そもそも棋界つまりは盤外の議論そのものに深入りを避けたがる棋士が多いように感じてしまう。

このところの与党一強独壇場の寂しい国会風景にも似ている(全体の価値観が一義化すれば、勝ちへのルートも一本化され、一強状態の出現は増える)。歴史に見れば、国や制度や慣習や文化が根底から揺らぎ覆(くつがえ)された幕末の時は、一つの結論(開国し近代化する)に達するまでの産みの苦しみたる葛藤が凄まじかった。

日本全土で人間が沸騰し、躍動した。志士は春夏秋冬咲き狂い、その咲き狂いが物語を生み、“明治維新”という一枚の絵になった。

日本の文明は遅れ、国力は乏しく、開国派のバックの欧米列強が強大な程に、攘夷派は寧(むし)ろ一層に猛り狂ったように跋扈(ばっこ)したが、今やいたずらに騒がずというか、時を経て日本人は幾らか賢明になったのかもしれない。棋界の若手の雄弁な勝ち頭が、“棋力の向上=理想の棋士像”とし、その方法にあっては“人工知能を用いた各々一方通行的精進を措(お)いて他になし”と、高らかに謳っている。

合目的的世界は、各々一方通行を原理的に奨励し、人工知能は技術的にその背骨となり、伴い、人が人を必要としなくなり、二人称的関連性が絶滅の危機に瀕(ひん)している。恋愛が婚活アプリのマッチングにとって替わられる様に、相対して互いの主義主張をぶつけ合う将棋が個々の計算の正しさの証明にとって替わられようとしている。

この謂わば“二人称的関連性の解体”が、実は棋士を魅せる将棋界の最も重大かつ致命的な危機の本質なのではないか。そう考える私は、千田六段の言説を眺め、一人寂しく、憂いている。

そして、こうも考える。「仮に全ての棋士が人工知能にのみ倣い将棋を指したとき、それは人間の、人工知能(の模倣)による、誰の為の将棋なのだろうか」と。

4 人間の痕跡

寂しい世界の考察を続ける内に、私は本当に寂しい心持ちに陥っていた。寂しい心持ちに身を沈める内に、哀しい気持ちと見分けがつかなくなってきて、それがひどく不安の内に胸を締め付けた。私は堪たまらずに、久しぶりに音楽をかけた。

「矢野顕子」のソロ弾き語りのCD。そのうちの一曲がその時の気持ちに調和した。

ずいぶん昔に、誰かが音源を落としてくれたもので曲のタイトルは分からない。それはとても哀しい調べで、音の奥に作り手が泣いているような気がした。そう思う時、私は独りでいながら感情を共有したような錯覚を覚える。

ある感情が自分一人の力では解決が着かないとき、私はいつも音楽を聴いていた。繊細な指先の跳躍が音を紡ぎ流れる。

そんな時はピアノソロがいい。手作りのマグカップで珈琲を飲むとどこか全身で温まるのと似ている。

部屋の灯りを消し、カーテンを少し開け闇を緩和し、音に耳を傾け、作り手の感情の痕跡をトレイスする。再生音楽であれ生演奏であれ、聴き手が音を聴くタイムラグから、音を認識したとき作り手はもう、そこにはいない。

聴き手が追い掛けたくなる痕跡を目を凝らせば分かる程度の輪郭で残し誘うのが作り手の最も良い仕事だ。将棋にあっても、私は棋士の判断の葛藤の痕跡を追い掛ける。

自らの判断に迷い苦悶したことの無い者が将棋を好きになるだろうか。考えれば、道に迷う。棋士はそれでも一手、また一手と指し続ける。

深い森の奥。道なき道は人間の足跡で道になる。

人間の痕跡には温もりがある。演奏と歌の音が止み、ふいに訪れた静寂と余韻のなか、もう寂しくない自分に気付く。私は再び、書き始める。

※本記事は、2018年12月刊行の書籍『人間を見つめる希望のAI論』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。