東日本大震災

地震当日

3年前からの警告、「今後30年以内に宮城県沖地震が起きる確率は99%」。

それは2011年3月11日14時46分に起きた。

思考できない頭が体も停止させる。異様な体の震えを感じながら徐々に思考力が戻り、家族に携帯で電話を掛けた。しかし、電話もメールも繋がらない。停電。携帯ラジオもない。携帯電話のワンセグが状況を伝える。

津波の情報が不気味に続いていた。名取川一級河川の警報サイレンが鳴り続ける。数機のヘリコプターが空を飛び交う。地震発生から1時間過ぎている。おかしい、波は過ぎたはず。津波情報がさらに、さらに増幅する。

車のナビTVを見る。仙台空港が波に呑まれている映像(第2波)を映し出す画面に目を疑った。ものすごい速さで多数の自動車や飛行機が津波で流されている。リポーターは、「どうなるかわかりません。もうだめです。だめです」と叫んでいた。

この時初めて避難しようと判断した。500m先にある3階建てのビルに走る。車で避難する者もいる。状況を把握できない私たちは、右往左往している。その時、全国でその様子が生放送されていた。

不安を掻き立てる名取川一級河川の警報サイレンは止まることなく鳴り続けている。状況を確認したい衝動にかられ危険を承知でさらに500m先の名取川の様子を見に行った。その光景に、足がすくんだ。

黒い、黒い濁流が、河口へ向かって流木を抱き込みながら暴れていた。しぶきが顔を濡らす。普段50m足らずの幅で流れている川は堤防500m幅を目いっぱいであった。あと数mで堤防を越える濁流である。

名取大橋は河口から7km内陸。津波第2波は川を上り内陸20km先の秋保地区でも確認されている。今見ている濁流はいったん上流に上りきった津波が河口に向かい流れているのだとわかり、超大なエネルギーを感じた瞬間、橋の上で座り込んでしまった。

津波浸水は自分たちのいるすぐ近く、内陸4.5kmまで到達していた。向かいの弁当屋さんは散乱する厨房の中で炊き出しを始めた。私たちは一人1個ずつおにぎりをもらい事務所内にいったん戻った。室内は資料棚が倒れ物は重なり、床が見えない状態だった。