序章 夜の電話

美沙自身、結城紬(ゆうきつむぎ)の産地問屋の三人姉妹の長女として育てられた。祐介は美沙と話をしていると、異性でありながら自分と重なる部分を感じていた。それは、美沙の長女としての自覚である。

祐介には、好きという感情とは別に、きっとこの人とは結ばれることはないだろうという思いが、いつも心の片隅にあった。

だから、美沙の返事は、ある程度は想定できたことだった。しかし、現実に彼女の口からその言葉を聞くことになると、想像以上に気持ちが落ち込んだ。一緒の時を重ねるたびにアワヨクバという期待も、いつの間にか大きく膨らんでいたのだった。

たぶん、美沙は親しかった咲子にも、この結婚を決意するまでのいきさつ経緯を聞かせていたことだろう。しかし、美沙のその後は、自分が考えていたようには上手くいかなかったようだ。

結婚の選択肢の一番重要な部分は、たぶん結婚相手への思い入れであろう。その部分で祐介は、その男に負けたと思っていた。そして、今でもそう思っている。

しかし、美沙の結婚への決意を最終的に後押しすることになった入籍のことは、そう簡単に譲れることではなかったはずだ。美沙が未だに旧姓を名乗っているということが、会うこともない美沙への思いを余計かき立てることにもなった。

美沙の心の襞(ひだ)に、自分を選ばなかったことへの後悔はなかったのだろうかなどと、今更考えてもどうにもならない、忌まわしくもあり懐かしい感傷にひたりながら、祐介は静かに受話器を置いた。

祐介の胡座の上に、たった一匹の家族であるメスの黒猫がよじ登ってきて、大きな金色の目をむき祐介の顔を見上げ髭を立てた。餌をやるのを思い出した。

「ミーサ、ちょっと待ってな」

咲子が祐介の個展を知ったのは偶然ではない。個展のために作ったパンフレットを祐介が咲子に郵送したからだ。

もしかすると、個展のことを咲子が美沙に話してくれるのではないかという期待もあった。更には、ひょっとすると美沙が個展の会場に足を運んでくれたりしないかなどといった、浅ましい微かな望みも抱いていた。果たして、この願いは叶うものなのか。

しかし、美沙が来たからってどうしようというのだ。底なしの大海に釣り糸を垂らして、自分は何を待っているというのだ。何を確かめようというのか。祐介は、自分の真意さえも計りかねていた。

今回の個展は、花をモチーフにした三十作品である。十日間、狭い画廊を借り切って開催する。早速、祐介は画廊の入口付近に咲子がくれた真紅の薔薇を飾った。画廊の白い壁や奥に並ぶ絵とも良くマッチした。赤い薔薇の花弁が、螺旋状にねじれて花の芯から次々と湧き出てくる。

この展示でも薔薇を描いた作品が三点ほどある。薔薇は、絵の具をすくい取ったナイフで一枚一枚の花弁を丁寧に貼り付け、更に絵筆で色を丹念に重ね、形を整えていく。薔薇には、何かを期待させるそんな魅力があった。