前之章 秘事作法

『秘事作法』は江戸時代初期の備前(岡山県)池田侯三十一万五千石の女御院教授の秀麗尼(しゅうれいに)が承応元年(1652)頃に著したものとされます。

彼女は名のとおり比丘尼(びくに)(出家した二十歳以上の女性の僧)で、若い頃は奥御殿に仕え、殿のお手付きになったものの子宝に恵まれず、剃髪して尼になったのでしょう。

それからは自分の体験を綴りながら、殿御前と夫人たちの身の回りの世話がお役目で、そのお役目の中には、お殿さまと夫人、奉侍(ほうじ)する奥女中たちへの性の手ほどきも含まれていたのではないでしょうか。

勿論、本人もそのお役目を担った先達(せんだつ)であったでしょう。では彼女がお側に仕え、その手ほどきを授けた若君とは誰だったのか。著者の推論では、備前岡山藩第二代藩主の池田綱政(つなまさ)、幼名は太郎 (1638~1714)だったと思います。

彼は名君池田光政(みつまさ)公の長男で、日本三大名園、「岡山後楽園」を作庭し、一方では大変な漁色家としても知られ、作法のおかげもあってか、七十人もの子をもうけたとされます(但し、幕府への届けは遠慮もあり十四人だったそうです)。

『秘事作法』はこの内容を基に記述を進めてまいります。当時の大名は世継ぎをもうけ、お家を代々継続させるのが大切な使命でした。徳川幕府は後継者のいない大名は取り潰すという慣例があったからです。

本編『私訳秘事作法』は、秀麗尼の『秘事作法』を種本に、薬子が宣旨(せんじ)、内侍(ないしのかみ)として後宮に奉職した頃、立派なお世継ぎを産んでもらうために、幼少から若君の男性器をたくましいものに鍛える「養宝作法」、女官たち自らの身体を駆使して若殿に実践の手ほどきをする「奉礼作法」、殿と夫人が閨(ねや)での行為を上手に行われるように手助けする「養宮作法(ようぐうさほう)」から構成されています。

薬子が後宮の職を退く時の後半では、最後の仕事として、女官たちの閨の寂しさ解消のための「作法の礼法」、更には彼女たちの健康をアドバイスする「養補益(ようほえき)」について語ります。

 

【イチオシ連載】結婚してから35年、「愛」はなくとも「情」は生まれる

【注目記事】私だけが何も知らなかった…真実は辛すぎて部屋でひとり、声を殺して毎日泣いた