それをほぐすため、晴美は体を動かすことにした。無我の境地になったつもりで自室を掃除した。この単調な作業によって晴美の頭の中はすっかりと休まったのだ。

母の声援を体中に浴びながら、晴美は自宅をあとにした。岡坂病院は『芳野吉峰書道塾』より幾分か遠くに位置する。岡坂病院の入口に一歩足を踏み込んだ途端、晴美は迷い道に出会したように途方に暮れてしまい、すっかり意気消沈してしまった。

いや、健常者より付き合いやすいのだ、精神障がい者の方が。何も心配することはない。晴美よ、大丈夫だぞ。己の胸に喝を入れた。三階までエレベーターで行った。すでに時間は九時五十分だ。腕時計を見た。三階はデイケアの部屋が中心に据えられている。そのほか、医師、看護師の休憩室もあるようだ。

ざわざわとした雰囲気がデイケアの部屋に近づくにつれて漂い始め、それがはっきりとした会話の言葉に変わった。ドアを開けた。

「やぁ、いらっしゃい。晴美さん」

中年の女性看護師が笑顔で出迎えてくれた。その笑顔で晴美の心には何となく一種の安心感が生まれ、ごく自然に会議式にロの字形に並べられた机に向かい、廊下のすぐ側の角っこ(廊下側の南)に座った。

ぼやっとただ座っていた。五分が経ち……、そして定刻の十時が来た。晴美の緊張度が最高に膨れ上がってくる……。

「今日から井意尾晴美さんが皆さんの仲間に加わります。晴美さん、自己紹介をして下さい」

上座の真ん中より左側に座っている看護師が立ち上がって言った。

えっ、自己紹介だって――。私、できない。

晴美は胸の動悸が激しく波打ち、顔が紅潮してきた。

どうしよう。どうしよう。

心は拒否反応をきたし、椅子に金縛りにあったように貼り付いて、腰が上がらず立ち上がることもできない。その様子を観た看護師は「座ってて構わないのよ」と優しい声で言った。

あぁ、よかった。

両手を胸に当てた。そして、言った。

「私は井意尾晴美といいます。今日から、宜しくお願いします」

心とは裏腹に言葉は小川の水が流れるように割とすらすらと言えた。

ふうっ――。溜め息を吐いた。

メンバーは二十人ほどの二十代~三十代の若い男女であった。司会はメンバーの三十代らしい男性がするようだ。晴美のすぐ後ろに一人座っていた看護師が前に進み寄り、黒板に向かいチョークで「今日のテーマは『趣味について』」と書いた。

晴美に促した看護師は右側の男性に「さぁ、始めて」と言った。その司会の男性の頭は若白髪のためか、髪の毛が窓から入ってくる明るい梅雨の晴れ間の陽光に照らされて眩しいほど光っていた。

【前回の記事を読む】「あ」を書くのがこんなに難しいなんて。額には脂汗が滲み、その汗が半紙にポタリポタリと落ち…

 

【イチオシ連載】結婚してから35年、「愛」はなくとも「情」は生まれる

【注目記事】私だけが何も知らなかった…真実は辛すぎて部屋でひとり、声を殺して毎日泣いた