ぼくは空屋を後にした。ゴッホ老人の怪気炎はまだ続いていた。

いろんな店がまだ延々と続いていた。人々がどこからともなく現れては、店の前に集まり、店の前を歩き、ぶらつき、徘徊し、至る所で人だかりを作っていた。みんな白い長衣を着ているのであった。

一際大きく人ごみができている一角があった。一番左手の端から、中へ割って入って側のものに訊ねてみると、そこは言葉を売る店であるということであった。不思議な店があればあるものであった。

いろんなものがごたごた並べてある中、中央に一人の憂鬱そうな白髪の老人が、どこか漱石先生の、しかもその人が百歳になったかのごとき顔つきをした老人が、一人、黙然と椅子に腰かけて、目をつむっていたのである。そして時折、目を開けてつまらなそうに前の人々を見ては、「どうかな、諸君、言葉はいらんかね」とつぶやくともなくつぶやくのであった。

店頭に一個の大きな水ガメのごときものが置いてあった。買い物客の一人が勝手知ったる顔つきで、側の金属製の柄杓を水ガメの中に突き入れ、ざぶりと中のものを掬い取った。そして水ガメの脇に結わえてあったビニールの袋を引きちぎり、その中へ柄杓の中のものを水ごと注ぎ込んだ。

透明なビニールの中には、何匹もの魚らしきものが泳いでいて、水面に浮き上るかと思えば、ふいに水底にもぐり、また斜めに泳ぎ上がる。さらには、初めから水底にへばりついて、じっと眼をつむっているのもいれば、互いに追いかけっこをしているのもいた。

よく見れば、それは魚というよりはむしろ、魚に似た別の生き物のごとくであり、縁がぎざぎざとして丸っこく、大きさは五ミリほど、そして角や尾びれなどが生えていたりするカレイのごときものは、実は、そういう風に見えるだけの漢字であり、「龍」のごとき漢字、「鯨」のごとき漢字、「鱶」のごとき漢字が底に蟠り、蹲り、ぎろりぎろりと目を光らせ鰓(えら)を動かし、呼吸をしているのである。

さらに、その上を泳ぎまくっていると見えたものは、白魚のごとき、キビナゴのごとき、サクラエビのごとき、ミジンコのごとき、ボーフラのごとき、そのようにしか見えない微小生物であったが、よく見ればそれらもまたかすかに一個の文字であり、あるものはアルファベットのbでありeでありtでありqであった。

それがくっつき合い、一つになって泳いでいるのである。さらにはギリシャ文字のαでありβでありγでありθであった。

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