第二 雑歌の章その二  

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風神家の庭にはカタバミだけではなく自然に育つ草花が季節により姿を変えて心を和ませてくれたが、優凪にはいくら考えても解けぬ疑問があった。他の人たちが家の庭や道端や空き地に育つ草花をなぜ雑草という名前で一纏めにして呼ぶのかを理解できなかった。

それはまさに彼が敬愛する植物学者の牧野富太郎博士が残した、「雑草という名の草はない。全ての草には名前がある」という言葉の示す通りで、彼らには其々(それぞれ)きちんとした名称があり、花・葉・種子・茎・根にも各々特徴がある。

育ちやすい場所、花が咲く時期の違いなどの個性を持ち自己主張しているのにそれを一括りにして、なぜ雑草と呼んでしまうのか腑に落ちなかった。

雑草という言葉はどうでもいい、その他大勢という失礼で不名誉な呼び名に思えてならない。

彼らが野山に育てば野草と呼んでもらえる。だが人間の生活する場所に姿を現した途端にその呼び名は雑草となる。もう少し素敵な呼び方ができないかと思い中学時代の親友と相談して、家に住むものは庭草、道端に育てば道草と呼ぶことにした。

確かに彼らを迷惑だと思う人はいるだろう。でも少しでもその成長を楽しみに四季を巡れば、決して悪いものではないと思う。母親が言うように、「あなたたちはここまで。ここからは他の草花のためにあけておいてね」と頼めば彼らはそれを無視しない。

彼らをよく観察すれば、自分の住むべき場所をきちんとわきまえて季節ごとに入れ替わり住み分けしている。人間が対抗心を抱けば、それに反発し挑戦的に勢力拡大して彼らは数を増やす。

こちらが愛情を示せば、可憐で可愛い花を咲かせて答えてくれる。

彼らは自分と同じ時空を生きている。ゆえに日々豊かにそして面白く変化する彼らの表情。

晴れの日は嬉しそうに陽に向かい、暑い日は苦しそうに俯き、曇りの日は陽の光を探して茎をのばし、優しい雨の日は気持ち良くシャワーを浴びて、激しい雨や風の強い日は健気にも必死にそれに耐えている……そんな姿を優凪は毎日観察していた。

彼らはともに大自然を形成する大事な一員であり大切な仲間だ。自分たち人間より長い時間をかけて、古の時代から数々の困難を乗り越えてきた大先輩をつかまえて、とてもではないが雑草呼ばわりはできない。

その中でもカタバミが自分の大切な友達の代わりとして、自分の悩みを聞いてもらい喜びを分かち合い悲しみを軽減してくれている。一緒に音楽を聴き読書し時間を共有してきた。まだ話はできないがお互いに理解できるようにはなっていると思う。

自分が成長できたのは彼らのおかげと言っても過言ではない。

もし自分が雑草と呼んでしまえば、彼らにとっての自分は迷惑でやっかいな雑人(ざつにん)の一人であろうと優凪は思っていた。