第一 雑歌の章その一 

(かささぎ)の橋※1

しめじめと降る雨の中、定刻通り午後八時にバイトを終えた彼は駅まで続く道をいつもどおり一人辿(たど)っていた。姿を隠すには小さい傘に街路樹から(したた)り落ちる雨粒の音が心の扉を叩くのに気づいてはいるが返事はできない。その傘から(しだ)れた雨粒はコートにはじかれ、穴の開いた心を素通りして次々に路面に吸い込まれていく。

彼の前には小さな女の子がピンク色の小さい傘を持ち、その横にはお父さんの紺色の大きな傘が並んで歩いていた。路地に差し掛かるとその女の子は左右を確認せず横断歩道を走って渡り、振り返って得意げに父親を見ていた。

「こら、ちゃんと左右を確認して、自動車が来なかったら渡るんだよ」と父親が(たしな)めると、「はーい」といい返事で答えたが、少し先の路地でまた同じように左右を見ずに走って渡った。

それを見た父親が今度は大きな声で叱った。

「リカ――危ないからやめなさい」

その言葉にビクッと反応して立ち止まる彼。

「車にぶつかったら、死んじゃうんだよ」

その言葉は彼の心に波紋を広げる。

「パパ……死んだらどうなるの」

「死んだら、パパもママも大切なリカに会えなくなるんだよ」

「二度と会えないの」

「そう、もう会えないんだよ」

自分の望まない言葉を置き去りにしたまま、親子は次の路地を左に曲がって行った。

その親子の残した(めい)(しょく)※2の漂う中をひたすら歩き、駅の改札を抜け電車を待つ人々やホームに立つ青色灯から離れ暗闇に(たたず)んで待っていた。


※1 鵲の橋とは七夕の夜に織姫星と彦星の一年ぶりの再会に鵲という鳥が翼を広げ並べた橋のこと。男女の仲を取り持つ橋といわれている。

※2 瞑色とはうす暗い色。