帰国からまだ間もないというのに、母佐知子は亜希子にとある男性を紹介した。暗澹たる思いでいる亜希子の前に現れたのは、少し意外に思える男だった。

チャコールグレーの上等な布地で仕立てられたジャケットと共布で作ったのであろうソフトハットは、もうすぐ還暦だというその男によく似合っていた。

生きていれば父邦夫と大して歳が変わらないことに先ずは驚いたが、その男との会話は意外にも楽しいものだった。気遣いのある話し方ができるその男もやはり経営者で、だからなのか亜希子は終始父邦夫のことを思い出していた。

母佐知子の用意する席は、大抵もっとカジュアルなものだった。それが今日は両隣を襖で仕切られた料亭の個室で、三人の前には海鮮をアレンジした会席料理が代わる代わる運ばれてきた。

食べたことのないような美味しい料理も加勢してか、亜希子は今までにないほどその席を楽しんでいた。残すところ水菓子のみとなった時に、中座した母佐知子はしばらく戻らなかった。

なおも話の弾む二人だったが、その男が亜希子の隣に腰を下ろしてから雲行きが怪しくなった。

「幸せになりたいのなら、あなたはもっと男と遊ばないと駄目だ」

その男が余りにも優し気に言うので、亜希子はその意味を計りかねていた。

「高級デートクラブがいいですよ。少しお小遣いでももらえばいい」

男は尚も訳の分からないことを言っていたが、それが大っぴらに口にできないようなことであるのは亜希子にも解った。何故、こんなにも悲しいのだろうか。裏切られたような思いでいっぱいの亜希子は、荷物を持つとその個室を後にした。

あの男が母佐知子の決めた、亜希子の相手だった。

本当ならば亜希子も郁子と春彦のように、悟とその愛を育んでいたことだろう。それが叶わないのは、きっと悟を亡くしてしまったからばかりではない。皆が当たり前のように享受しているものが、何故こうも遠いのだろうか。

亜希子はこんなにも憐れで、みじめな存在だったのだろうか。ずっと心の海の奥底に沈んだままでいればいいものを、何故、今更こんなことに気が付いてしまったのだろうか。

【前回の記事を読む】精神的ショックで壊れた妻。穏やかで幸せな日々は遠のき…