序章 旅立ち

伊勢二見浦(いせふたみがうら)の海を見下ろす安養山(あんようざん)にある西行庵(さいぎょうあん)に、ひょっこり僧正坊 (そうじょうぼう)が訪ねてきた。

墨染(すみぞめ)の僧衣を着ていながら、伸び放題の髪を振り乱し、腰に山刀を引っ提げている。日に焼けたいかつい顔に突き出た高い鼻。ぎょろりとした大きな目玉と太い眉毛、への字に結んだ大きな口。筋骨隆々とした並外れた巨体は、到底常人とは思えない。

鞍馬山(くらまやま)の大天狗(おおてんぐ)なのである。

「お主、奥州に親族がおったよなあ」

僧正坊は、何年かぶりに会ったというのに挨拶も抜きで、妙なことを言う。

「おう、我が佐藤家と奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は共に俵藤太(たわらのとうた)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の末裔であるが、何分遠方なもので、私は四十年も前に一度訪ねたきりだぞ。それがどうした」

僧正坊とは、西行が二十三歳で出家し鞍馬山で修行していた頃からの付き合いである。ましてや相手は天狗、人外の者であるので、お互い世間一般の堅苦しい言葉は使わない。

「小僧をひとり、届けたいのだが」

「源義経か」

「いい勘だ」

「この前、会ったぞ」

西行は、伊勢大神宮の参道で先日義経に行き会ったことを話して聞かせた。

ふうむ、と僧正坊は頷いた。

「実は、あの小僧は、昔、わしが仕込んだんだ」

平治(へいじ)の乱で敗れた源義朝 (みなもとのよしとも)の子義経(よしつね)は、幼い頃僧になるため鞍馬の寺に預けられた。後に義経は自分が源氏の系譜を引き、父源義朝が平家に滅ぼされたことを知った。義経はひそかに源氏再興の日を期して、深夜剣術の修行を始めたのである。

「それがなあ。無闇と重い棒きれを力任せに振り回すばかりで、見ていられなかったんだよ。あんな無茶な修行をしていたら、人一倍細っこい体を、壊しちまうだけだからなあ……」