なぜなら、近所の子供同士の遊び集団は、それぞれの子が、自発的に集まって遊び、疲れたり、いじめられたり、悲しいことがあったら、家に帰れる場所なのである。それに比べて、保育所の中の子供たちは、自発的に集団で遊んでいるわけではない。

近所の遊び集団の子が、家に帰ってお母さんの姿を見て得られる安心は、保育所の中では得られないのだ。そのため、いつも負けてばかりいる子は、"負けグセ"を、盲目のうちに形成してしまうと思われる。

例えば、先程述べたように、オモチャの取り合いがある。外では遊具の取り合いがある。一番のボスが、滑り台を気に入ったら、他の子を排除して、その子は一人占めを続ける。誰か大人の人が、「順番に並んで滑るように」言ったり、「一人占めしないで、皆で仲良く」するようにつきっきりで指導しなければ、子供は原始的な弱肉強食の世界を作ってしまうのである。

そして、滑り台を「滑りたいなぁ」と思っている"弱い子"が、あきらめて、ブランコを始めると、子供なので、そのうちに悲しい気持ちを忘れて、楽しくなって来る。

すると、それを見て、滑り台を一人占めしていた"強い子"は、ブランコをやりたくなり、今度は、"弱い子"をブランコから追いやって、自分のものにしたりする。

そのようなことを、来る日も来る日も、際限なく続けられてしまえば、いつもオモチャや遊具を取り上げられる子は、いわば「あきらめグセ」を、知らず知らずのうちに形成してしまうのではないだろうか。

(以上、「母性革命」第五章より抜粋)

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「あきらめグセ」→「低学力」→「不登校」という図式

保育所などで多数の同年齢の子と長時間一緒にいると、一見「自我らしきもの」はできる。

しかし、それは「中心の定まった強い自我=自分核」ではない。

強い内核(自分核)は、自分自身の存在への「自信」がつくり出すものである。母親や身近な養育者に大切にされ、愛されることによって形成されるのだ。

内向的な子でも、せめぎ合いの中では自我らしきものはできるが、それは中心核の弱い外郭にすぎないのである。

自分が思いついて、やりたいことをするということは「選び」を生きることである。その「選び」を阻害されることが多いと、やがては、初めから「選ばない」「望まない」「考えない」「あきらめて行動しない」子になってしまう。

このようなタイプの子が学力が低くなるのは、困難を乗りこえようとする意志力が弱く、あきらめてしまう方に、はまり込んでしまう強いクセのためなのである。

【前回の記事を読む】養育者が自分に向けてくれる言葉で自分という存在が「受け容れられている」ことを感じる。