誰でも知る大企業へ(昭和四十三年~平成十年)

再入社で栃木県へ

相模原市に転居し建売住居に住んで半年足らず、借金を背負って五年勤めた会社を退職した。自転車で単線の横浜線の淵野辺駅(相模原駅の二つ手前)まで行き、そこから、東神奈川で乗り換えて川崎駅まで。三交替の昼勤は朝七時ギリギリで会社へ。電車の中で夜を明かしていた。人間関係も悪かった。

次の仕事が見つからず四十日過ぎた頃、同じ会社の別工場の募集広告を見て、常昼勤めであり通勤も全く問題なしのため面接へ。直属の工場を辞めてすぐのため、非常に驚かれた。再度試用期間の準社員から始めることになった。勤労課は、前の工場で出した履歴書まで取り寄せていた。直属の工場を退職した者は、原則として再雇用はしないことになっていると知らされた。

前の工場では半導体の製作で、白衣を着ていたが、今度は大型の医用機器の組立で天井クレーンが走行しており、各自のヘルメットがあった。天と地程違う環境なのだ。勤まる所ではないと思った。

班長は二十七歳で他は二十~二十四歳の若者ばかりの中へ、私は三十歳で飛び込んだのだ。最初はクレーンの操作ボタンを触れるのも恐かった。電気ドリルで鉄に穴を開けたりネジを切ったりなど、年下の先輩に教わった。班長から呼び捨てにされなかったのは私だけであった。

職業訓練所や自衛隊でも、車の整備が嫌で辞めた男が、ほぼ似たような職場に来たから、いつ次の職探しになるかと思いながら通っていた。しかし、人間関係も馴れ親しんで仕事も覚え、二年経ったぐらいのときには、仕事の早さでは誰にも負けないという思い上がりが出ていたと思う。

三ヶ月後に医用機器の組立配線工として、社員一級で登用(前の工場では二級)。入社二年で格付けは主事補。同じ年の昭和五十年に、工場が川崎市から栃木県の那須地方に移転し、東芝那須工場になった。

相模原の建売を売却し、その代金の範囲で那須地方に家を建てたら、社内で一番小さい家になった。会社で一番小さい家を訪ねてきたら、我が家ですと言ったものだ。他の人とは反対に、家より土地に重きを置いて、家庭菜園ができるように広めの百坪。家は十五・七五坪の平家。建売を買ったときの利息にあきれたので、借金は持たないことにした。

原付バイクで、夏も冬も二十年間通勤したのは私だけだ。みんなが、車の免許を取って車で通ったらと言ってくれたが、意地になっていた。実は自衛隊で、昭和四十一年に大型免許を取得していたが、電車通勤が続くと思い、あまり必要を感じなく流してしまったのだ。

家内は車でパートに出ていたが、私は北海道へ帰るのも、どこへ行くにもバイクだった。

休日は殆ど家におらず、気の向くまま当てもなく、栃木県内から茨城県の海までもぶらり。家内は人が来ても行き先が言えない。本人も行き先が決まっていないのだから。