主題ハ長調

空振りの旅

今回の買い物では価格は確かに重要だ。だが選択肢がひとつの型の、しかも四台のみという選定会場で果たして音色への満足が確実に得られるのだろうか。

最大の決め手について何ら保証がなかった。セレクションルームへ行くということは即ち、そこに用意された四台の中から選んで購入する、という約束を交わしたことを意味する。

成田社長は確かに心底親切な提案をしてくれていた。でも音の追求という本来の議論をし尽くせないまま一生ものの買い物をするなんて、やはり無理。甘言にひょいひょい乗って行き着く先を間違えでもしたら元も子もないという自制心が土壇場で働いた。

思わずため息調律師の伊東さんから「M型という小さいグランドピアノですけど、実にスタインウェイらしい音色の楽器が見つかりました」と出物の情報が入った。早速和枝と二人連れて行ってもらうことになり、家の近くの善行駅で待ち合わせた。

家から駅に向かう坂道には、公園から木々の枝が張り出していて、散り敷く紅葉にドングリも交じり、もう秋真っ盛りだった。「豊作ね」と嬉しそうな和枝は、遥へのお土産にするのだろう、二粒、三粒と形の良い実を選んでは、レインコートのポケットに忍ばせていた。

埼玉県春日部市にある「ラルゴ楽器」は中古ピアノを再生して販売する会社だった。店舗は持たず、業者しか立ち入ることのない倉庫に伊東さんの紹介で特別に入れてもらった。

巨大なバラックの二階に案内される。入り口からすぐに、白布で覆われ積み上げられた無数のアップライトの「山脈」が立ちはだかっていた。

スタインウェイ群はその奥に「平野」のように広がる。真ん中辺りには最も大きいフルコンサートモデルのD型が無造作に置かれていた。

伊東さんに「平林さんどうぞ。まだ再生途上のものですが」と促され、和枝が弾いてみる。でも、この作業場兼倉庫の環境の方に目を奪われ、音の深みを測る心のゆとりがまだできていないようだった。

このD型、仕上げて六〇〇万円台で売りに出すそうだ。ここの若社長は二代目で大変な勉強家。ドイツ語も独学で身につけ、スタインウェイはハンブルクまで単身出かけていっては買い付けてくる。無闇にいじくり回すようなことはせず、中古ピアノとしての評価も業界内で高いらしい。

さて、伊東さんイチ押しのM型は?と周りを見回す。ウォールナット色で猫足の、こぢんまりした可愛らしいピアノがそれだった。和枝が鍵盤に触れると、温かみのある粒の揃った音が返ってきた。フォーレの「ヴァルス・カプリス第1番」を弾くとしっくりきた。「いいねー!」。異口同音に感想が漏れる。

和枝は打鍵の感触と音色のあまりの心地良さに、ワルツの躍動感に身を任せて弾き続けた。これは四〇〇~五〇〇万円。音色と価格と将来性の三つが頭の中でぐるぐる回りだし、もう収拾がつかない。