まだ熱のある郁子にいつものように弁当を作らせ、こうして家を出て来る以外に能がない自分の何と情けないことだろうか。春彦はそんな自分を郁子の目から隠すようにして、足早に駅へと向かった。

重く冷たいものが、春彦の身体の中心で揺れていた。きっと仕事を終えて帰宅すれば、またいつもの郁子が迎えてくれる。

今のこの気持ちを無かったことにして、早く職場に向かいたい。そんな思いを余所に、身体の中心で揺れるそれが足取りを重くするのだった。それは本能だったのかもしれない。

何故、春彦はそれに従わずに、判断を見誤ってしまったのだろうか。普段の春彦なら自分がどんなに情けなくても、郁子を一番に考えたことだろう。これが長らく続く、春彦の苦しみの始まりだった。

春彦と郁子の交際期間は、三年間だった。二人は姉亜希子の紹介で知り合い、その交際が始まったのは春彦が二十五歳の時、郁子が二十歳の時だった。

初めて男性と付き合う郁子を思い、春彦は年頃の女の子が好きそうな大抵の場所に郁子を連れて行った。手中で花開き結実していくかのような郁子が、春彦には愛おしくてならなかった。

そんな郁子に春彦が結婚を意識するようになるまで、そう時間はかからなかった。結婚からの八年間は、夢のように過ぎて行った。

二年前のあの流産さえなければ小さな息子も交えて、それは今も続いていたに違いない。渡米前に亜希子が来訪した夜、郁子は得体の知れない恐怖や不安、発熱といった心身の不調を露呈していた。

春彦は結局、仕事を早退することすらできなかった。ずるずると定時まで職場に居続けて、今頃そのミスに気が付くような自分を呪うしかなかった。

郁子は春彦に出会う一年前、どうしてやることもできない闇を心に抱えていた。けれども春彦とのこの八年の生活で、その闇はなりを潜めていた。ただ愛くるしいばかりの郁子が、いつでも春彦の手の届くところにいた。

それが今やその闇の源泉から沸き起こる何かが、郁子を蝕んでいた。春彦こそがいち早くに気が付き、手を差し伸べてやらなければならないはずだった。

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