壱の章 臣従

小田原陣

噂を耳にした秀吉は、いち早く僅(わず)かばかりの供回りだけを連れて家康と信雄の陣屋を訪れ「無聊(ぶりょう)を数寄(すうき)で慰めてやりてゃあでちょこっと付き合ってちょ」と自らその中に飛び込んでいった。その大胆さに度肝を抜かれ家康も信雄も盛大な宴を催すしかなかった。

機先を制した秀吉の機知によって"徳川殿、織田殿ご謀叛"の噂は消えた。秀吉は小田原本城が降伏しないのは関東に散らばる九十以上の支城からの援軍を待っているためであるとして「相州武州の支城を悉(ことごと)くすり潰し本城を丸裸にせよ」と命じた。

義宣ら関東勢にも『石田軍の忍城(おしじょう)攻撃に合力(ごうりき)すべし』という命令が出た。

その時、初めて総大将として指揮を執る石田三成は大谷刑部少輔吉継、長束大蔵大輔正家ら一万七千の兵で館林城を攻囲していたのだが攻め倦(あぐ)み膠着状態に陥っていた。

そこへ北条一の猛将と聞こえの高い北条氏勝が城側を説得するため、つるりのお頭(つむ)でやってきた。

北条氏勝は先の箱根山中城の攻防戦で山中城の救援に駆け付けたが徳川家康、羽柴秀次らの猛攻を受け城は僅か半日で落城してしまった。

氏勝は死地を求めて居城玉縄城に戻り立て籠もったが家康からの降伏勧告に従い、剃髪(ていはつ)して法体(ほったい)となり投降していたのである。

その降将、氏勝の説得により城代の南條因幡守は六月四日に全面降伏し無血で城を明け渡した。館林城の接収が終わると石田軍は再び利根川を渡り忍城攻撃に移った。

そこに義宣率いる関東勢一万余が加わり総勢二万七千余となった石田軍は忍城に至る八か所の口全てを兵で固め完全包囲した。

忍城は利根川と荒川に挟まれた沼沢の自然を要害として築かれている。丸墓山に本陣を構えた三成はその頂から見える沼や深田に浮かぶ忍城の攻めづらさを改めて思い知らされた。

忍城は城主である成田氏長が小田原本城の防衛に赴いているため叔父の成田泰季が城代を務め農民などを含め三千五百余で守っていた。三成は丸墓山の本陣で大谷、長束と関東勢の義宣らを招集し軍議を開いた。

「まず、和戦を尋ねようと思うが使者は誰にしたら良いであろうか?」

と三成は指呼の間に見下ろす忍城を指して尋ねた。

「その役、某が承(うけたまわ)ろうか」