根岸の里の

 

上野恩賜公園のさくら通りを抜け動物園の方向に歩く途中に小さな草野球場がある。入り口に正式名「上野恩賜公園正岡子規記念球場」の名が掲げられたここで、まだ病が進んでいなかった頃、子規が捕手として草野球を楽しんだことが彼の随筆中にある。

本名の「のぼる」に因んで雅号を野球(の・ぼ・る)にしたことさえある子規はかなりの野球好きだったことは有名だ。球場の前には子規の句碑が建てられている。

春風やまりを投げたき草の原 子規

球場を過ぎて、東京国立博物館の前を右に曲がり、少し歩けばJR鶯谷駅で、そこから坂を下った辺り一帯の地名が根岸である。今は風俗ホテル、マンションが無秩序に立ち並び、決して風情は感じられないこの地域も昔は静かな、自然の残る環境であったに違いない。

大正初期に入船亭扇橋が「梅が香や根岸の里の侘住まひ」と詠んだ句以来、上五にどんな季語を並べても下の七・五に「根岸の里の侘び住まひ」と続ければ名句になるという通説をご存じの方も多いことだろう。

駅名にも残るように、根岸の地には鶯の声が響き、今は暗渠となってしまった音無川の清流が音を立てていたと聞く。

根岸小学校入り口に正岡子規の句碑がある。

雀より鶯多き根岸かな 子規

この地で晩年を過ごした子規も、さぞかし鶯の声に心を癒したことだろう。この根岸に正岡子規が母と妹を故郷松山から呼び寄せ住み始めたのは明治二十七年である。

元御家人の二人長屋であったという小さなその家は昭和二十年の東京大空襲で消失したがその後篤志家によって当時のままに再建され、子規の晚年を偲ぶ場として公開されている。

彼の病室兼書斎兼句会の会場であった八畳の部屋の畳を踏んだとたん、痛む背を丸め部屋の前庭の糸瓜棚を見上げている子規の姿を脳裏に描くのは容易だった。

八畳間という小さな空間を彼のような天才は果てしなく広い世界に変えられた、その奇跡を畳の感触が少し信じさせてくれた気がした。

小さな前庭の草木も子規の好んだそのままを再現する努力が続けられている。

あの正岡子規の糸瓜は今年もボランティアによって丁寧に手入れされ、九月十九日の糸瓜忌の頃に、根岸の棚に立派な実をぶら下げることだろう。

二〇一六年 八月