【前回の記事を読む】「梅の花一輪咲きても梅は梅」”鬼の副長”土方歳三に俳句に親しむ意外な一面が。

松原庵星布    

 

旧街道を歩く楽しみの一つは、車行き交う平成の道の傍らに残る歴史の欠片(かけら)から、遠い昔の古人の微かな気配を嗅ぎ取ることである。

今回歩いた甲州街道、日野から高尾まで二十二キロの行程でも、万葉の時代の歌人から新選組隊士達まで様々な時代を生きた人々の息吹に出会うことが出来た。

途中、八王子の永福稲荷神社で「日影塚の碑」と呼ばれる芭蕉の句碑に行き会った。

蝶の飛ぶばかり野中の日影かな 芭蕉 

この句碑が市の文化財として大切にされていることは碑の周囲がフェンスで囲まれていることからもわかった。理由はその芭蕉の句碑を建てたのが八王子の生んだ文化人、松原庵星布だからであるようだ。

星布は芭蕉俳句の系譜を継ぎ、加賀千代女と並ぶ江戸時代の女流俳人である。彼女の手植えの椿は星布椿と呼ばれて今も市内に毎年花をつけ、市内のいくつかの寺社や資料館には彼女の連額が大切に保管されているという。

彼女は享保十七年(一七三二年)八王子に生まれ、加舎白雄に師事、多摩地方の芭蕉俳句の結社松原庵を継ぎ、後に出家し星布尼となった。星布という名は空の天の川を意図したものであるという。加賀千代女が身辺の細やかな事物を句の材料としたのに比べ、星布には大胆に広々と宇宙にまで目を向けた句が多いと聞く。

天の川終わりは野末の流れかな 星布

行きも野中かへるも月の野中かな 星布

大胆な言葉で宇宙に目を向けたりと女性でありながらスケールの大きい句を創ったようだ。自らの俳諧結社松原庵の組織化で八王子周辺多摩地方に留まらず甲州や相模など俳諧の繋がりを広げるなどの、当時の女性らしからぬ器量もあったらしい。

永福稲荷神社からほど近い大義寺に星布の墓があり東京都の指定旧跡となっている。小さな墓にはまだ新しい卒塔婆が何本もあることから今も彼女の法要を営む人々がいるのだろう。

墓の側面に彼女の句があった。

咲く花もちれるも阿字の自在かな 星布

二〇一七年 九月