【前回の記事を読む】「むかーし、うつくしーい娘っこがいたっす」遠野物語の舞台、岩手県遠野市に出かける

草木塔

 

古道歩きの趣味のせいか「道」とは面白いものだと思う。新型コロナウイルス騒ぎや猛暑のせいで、今夏は遠出が出来なかったものの、幸い私の住まいの周囲には歴史の残る散歩道が多いのがうれしい。

その一つに小野路という古道がある。多摩丘陵の一角の、何千年も前には獣道しか無かったはずの雑木林の中に、いつの間にか人々が行き交う道が出来、年月を経て多くの歴史の足跡をそこに残していった。この地方から多くの男たちが防人として九州に向かったから、彼らの踏みしめた道でもあったろう。

小野路の名は百人一首の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよあまのつり舟」の歌人、小野篁の家系が国司としてこの辺りを治めたのが由来である。

真偽は分からないが、道の近くの林の中には小野小町が眼を洗ったという小さな湧き水も残る。鎌倉時代になると甲冑を身に着けた武士たちが「すわ鎌倉!」と走った重要な鎌倉道の一部となった。

近くには木曽義仲の息子義高のいた木曽町の名がある。江戸時代には道筋の小野路宿が旅人で賑わった。久能山から徳川家康の遺櫃(いひつ)が日光に移る時もここを通っていったと伝わる。

時が幕末から明治に進み、新撰組や明治の自由民権運動の逸話もこの辺りに多く、その資料館もある。時代を感じさせる古家の残る町並みや雑木林、野や畑中を抜ける道……、小野路は様々な歴史の想像を掻き立てるタイムカプセルのような道である。

現代ではこの小野路の風情に惹かれて歩く人々も多い。宿場時代の旅籠の跡地には休憩所となる交流館もあり、今散策者たちに利用されている。

そこから少し歩くと、万松寺谷戸と呼ばれる棚田の田園風景が広がる。樹木や草木への感謝という「草木塔」という優しい風習を私はここで初めて知った。

たどたどしい墨字で「感謝して手を合わせて」と書かれた木札の横に草木塔と彫られた五十センチ程の小さな石塔が畑の隅にあった。江戸時代上越地方から伝わったというこの塔の風習は今でも東京近郊にもいくつか見つけられるそうである。

谷戸近くに、戦時中疎開児童たちを預かったという小野山萬松寺という禅寺がある。山門の近くに大きな句碑があった。

梅林の空拓けゆく朝かな 草山

俳句結社「梅林」を主宰した小林草山の句碑である。伊予松山出身の彼は正岡子規の伝統を引き継ぎ、この小野路のある町田市の県議会議員としてここに移り住んだ。

「道」とは地点から地点を結ぶ手段だが、長い時の流れの中でそこで運び続けたのは膨大な人々の心であったと思う。

追憶や昭和は遠しひと葉落つ 草山

二〇一六年 四月