第1章 比叡山 焼き討ち 

おふく

元亀元年四月、土岐家の出とされる明智光秀様は、長い浪々生活の後細川家に仕え、永禄の乱で将軍義輝様が三好人衆らに殺害されると、細川藤孝兄弟達と協力して当時出家していた義輝様の弟覚慶覚慶(かくけい)様を救出しました。そして覚慶様を還俗(げんぞく)させて足利義昭と名乗らせ、最初越前の朝倉義景(よしかげ)を頼り、京への復権を目指しておりましたが、義景はなかなか立とうとしませんでした。

義昭様は煮え切らない義景を見限って、光秀様の仲介で尾張の織田信長様を頼って尾張に行き、信長様の力添えで京に上り、朝廷に認められて征夷大将軍となったのでありました。その功で光秀様は将軍義昭様の奉公衆の一人になったのでありました。

元亀二年九月、信長様は、佐和山城を本陣とし、朝倉・浅井両軍と対峙しており、光秀様も幕臣であると同時に織田軍団の一員として参戦しておりました。ところが、石山本願寺の顕如(けんにょ)殿が、突如織田軍打倒の旗を掲げ、全国の一向宗門徒衆に「織田信長を討つべし」との檄をとばし、織田軍の背後を窺う構えを見せました。

加えて同盟国の徳川家康様より武田信玄が全軍を挙げて上洛する準備を始めたとの報せが入り、四面楚歌の窮地に陥りそうになり、その打開策に苦慮しておりました。そこで光秀様の発案で、将軍義昭様に強要して、朝廷より和議の勅令を出してもらい、朝倉と一時的な和議が成立したことで、信長様は窮地を脱することができたのでした。

体勢を立て直した信長様は天下統一の一番の妨げとなっている比叡山と麓の坂本一帯に火をかけ、全山焼き討ちにして門徒衆を一掃したのであります。その戦勝の功により光秀様は織田家最初の城持ち大名になったのでありました。

私の父、斎藤利三は、その頃はまだ信長様の家臣、稲葉一鉄殿の家老として仕えておりました。