【前回の記事を読む】家族とのぜいたくな暮らしの中で獲得していた、苦境に耐えうる「自尊心」

第1章 記憶の始まり

父の仕事と東京のおみやげ

お正月の二日は「仕事始め」の日でした。父の鉱山も仕事始めです。

家のオート三輪車に「初荷」と書いたノボリを立て、車の横には紅白の垂れ幕を張ります。その車で町の中を、ミカンや紅白の餅を撒きながら走るのです。大勢の子ども達が車の後を追って走りました。

私はお正月が大好きでした。綺麗な振袖を着せてもらい、羽根つきをしたり福笑いをしたりして遊びます。当時の我が家は父の仕事も順調でとても裕福でしたので、ご馳走いっぱいのぜいたくなお正月でした。

父は鉱山近くの小学校に、遊具などを寄贈した話をしていました。私は当時子どもでしたのであまり気に留めてなかったのですが、数十年後高校のクラス会でその話が出ました。

その小学校の近くに住んでいる友達がいたのです。その友達は、

「あなたのお父さんの名前とその功績を刻んだ物が今も校庭に残っているわよ」と話をしてくれました。

それを聞いて私は、五十年以上経た今、父の生きた証を垣間見た想いがしました。

テレビが入り家の前が人だかりになる

昭和二十八年か九年の頃、我が家にテレビが入りました。

父は、「烏山町にはまだテレビは二台しかない」と言って上機嫌でした。

テレビは道路や玄関の車庫から良く見える上り口の座敷に置きました。その車庫に毎日のように、夕方から夜にかけて近所の人や通りがかりの人が、何十人も押し寄せていました。後ろの人は背伸びをしたり、父の作った踏み台に乗ったりして楽しんでいました。

その中に、昼頃になると時々家の前に来てずっと立ち続けて、何かを待っている親子がいました。その親子が来ると母は必ず、大きなおにぎりを二つ作って渡していました。

この親子連れの他に時々、白づくめの着物に兵隊帽をかぶった手や足の不自由な人が首に箱を下げてやって来ました。その人達には母はおにぎりではなくその箱にお金を入れてあげていました。

私はその様子を何度か見ているうちに、母の何も言わずにそっと渡す姿が、とても格好良く見え、私も母のように、

「大人になったら、他の人に何かしてあげられる人になりたい」と思いました。

テレビを見に来ていた人達は、番組の時間を覚えていて、それに合わせて夜遅くまで楽しんでいました。特に力道山のプロレスが人気で、その日は特に人が多く集まり賑やかでした。力道山の「空手チョップ」が飛ぶと、皆興奮して大騒ぎです。エノケンやアチャコの漫才も人気でした。

私のお気に入りは『ジェスチャー』というクイズ番組です。テレビの前でタレントさんと一緒に身振り手振りをして楽しみました。

当時私はテレビを見ながら、遠くにいる人がどのようにしてこのテレビに映るのか、とても不思議でたまりませんでした。

父はと言うと、テレビを見ると言うよりも玄関横の部屋から大勢の人だかりを見て、皆の喜ぶ姿を嬉しそうに眺めていました。その部屋は父の仕事部屋です。大きな机と背もたれと肘掛の付いた回転イスがあり、父のお気に入りの場所でもありました。