第一章 決心

郁子が春彦に歩み寄り、素足のまま廊下の上がり框から玄関へと降りてきた。その視線は春彦の肩の先にある何かを忙しなく追っているようだった。軽やかに揺れる白いネグリジェが床に触れた途端に血溜まりを吸い上げていく様は、まるで何かの実験を見ているようだった。重く下がり始めた視界がなおも捉えるその様子を隅に、春彦は郁子の表情の変化を見逃すことはなかった。

「郁ちゃん、もう大丈夫だから戻っておいで」

春彦は痛みに顔を歪めながらも、郁子にそう呼びかけた。

この三日間、郁子の心の中では、一体何が起きていたのだろうか。既に死を予感する春彦の心では、今までの嵐が嘘のように凪いでいた。この二年間の苦しみや悲しみ、絶望ですらも、その全ては愛でしかなかった。遺すことになる郁子には、せめて幸せになってもらいたい。それが春彦の願いだった。

「確かに愛する人は、この世に生きていてくれるだけでいい」

俯きながら独り言ちると、春彦は視線を郁子に向けた。焦点の定まらなかった郁子の視線が揺れているように見えるのは、限界に近付きつつある春彦の願望が見せている幻なのだろうか。

『お願いだ、僕がここにいることに気づいて。僕はお義父さんじゃない』

この思いだけが、春彦を今に繋ぎ止めていたのかもしれない。おびただしい出血が身体をがくがくと震わせる中、春彦は気力を振り絞るようにして立ち上がった。そしてまるで綿あめをそっと包み込むかのように、郁子を優しく抱きしめた。触れ合っている細胞という細胞を通してこの二年間の全てが、郁子へと流れ込んでいくように春彦には思えた。

その時、郁子が小さな声で何かをつぶやいた。それを聞くと春彦は息を大きく吸い込み、目をつぶった。その頬には、涙がいく筋も伝わっていた。

「もう僕は、君を悲しませるようなことはしないよ。もう大丈夫だよ」

春彦は祈るようにしてそう伝えると、郁子の口元に耳を寄せた。郁子がまた何かを言った。郁子の口元が震えていた。何かをこじ開けるようにして精一杯力を振り絞っているのが、春彦にも伝わってきた。

「僕が誰だかわかるかい?お願いだから、僕の名前を呼んで」

春彦は意識が遠のきそうになるのを、必死に繋ぎ止めながら懇願した。その時、かすかに郁子が身体を動かした。春彦は腰のあたりに、何かが触れるのを感じた。郁子が顔を歪めながら、必死に春彦を抱きしめ返そうとしていたのだった。

「お父さんに、幸せなお嫁さんになるって約束したのに」

春彦は今度こそ、郁子の言葉を聞き逃さなかった。

「悪いのは僕だよ。郁ちゃんは、お義父さんとの約束は破ってないよ」

春彦は郁子の瞳を覗きこむと、こみ上げる嗚咽を隠そうともせずに伝えた。