第1部 政子狂乱録

二 (あら)(ばち)を割る

そんなわけでこの時代には「不倫」という概念がないから、不倫が罪という考えもない。男が女に文を通わせて求愛し、色よい返事があれば忍んで行って共臥(ともぶし)する。男は夜の明けないうちに人目につかぬようにして帰り、翌日になると、必ず、女に想いを託した歌をしたためて使いの者に持たせる。

これを「後朝(きぬぎぬ)」といい、それを繰り返して三日目の夜には妻の家で作った餅を婿に食べさせる“三日夜餅(みかよのもち)の儀式”を行い、妻方の身内が集まって宴を開く、つまり恋愛結婚が普通であった。

この文が届けられないと、女は男に嫌われたと思って嘆き悲しむ。

現代ではこの行為を「夜這(よば)い」と表記されるが、確かに夜這うようにして忍び込むのだから、一つの真相を現わした言葉ではあるが、本来は、家族と離れて一人居る女に口笛か、又はそっと呼んだかして訪れた男の行為を古記では「(よば)ひ」と言ったのであり、この風習は昭和の時代まで多くの地方には残されており、結果として妊娠して産まれた児は、夜這いをかけられた娘の弟妹として育てられ、山陰地方ではこれらの子を「ほりたご」と呼んでいた。墾田(ほりた)とは年貢を納めない隠し田のことである。

江戸幕末の性愛指南書『男女狂訓・華のあり香』の中には、人知れず忍んでいくときに、帯を敷き延ばしてその上を伝い這ってゆくのがよい、嫌がる女は大股に手を入れても決して股は開けないので、女の(きびす)を持てば開かせることができる、十五・六か又は新開(あらばち)であるならこれも更に難しい、と述べている。

古代の日本人男女の交わりは部族間の群婚であって、ボーイハント、ガールハントも自由自在、人妻であろうと娘であろうとその垣根はなく、現代のような性道徳に対する意識はなかったのである。性行為以外にも、食糧や住居なども部族の共有物で、そういう強固な団結心と社会構造でなければ、自らが所属する社会の存続は困難な時代であった。

その結果子供ができれば、誰が男親かは全く分からない訳で、親は母親だけということになり、父親は全く有名無実の存在であって、当然ながら子供は母の手で育てられることになる。女性には男性には持たない生殖の機能があり、その為、神秘的なシャーマンの能力を具えているとされて、いつのまにか女権優越の社会構造ができ上った。

産まれた子の名前は母親がつけるのであって、父親が口出しすることではないのである。財産も母から娘へ、娘から孫娘へと相続されて父親の存在など関係ない。この様にして日本では母親中心の母系社会ができ上がっていき、これが進化してゆくと、「複婚(ふくこん)」という特殊な婚姻スタイルを産みだすようになる。つまり、男に何人もの妻が存在すると同時に、女性にも何人かの夫があったのだ。

そして日本は「多夫多妻」の国として始まったのである。