この話続けてもいいか?

今日の話はカメラマンとしてどう受け取るかなんて関係ない。人の記憶に残る風景を考えてみたいわけだ。みんなにはそんな経験ないだろうか? 自分の目に映る風景が止まっているように錯覚したことはないだろうか? ものの3秒間だよ。交番前の表通りをひっきりなしに行き交う車。小学生の目には恐怖すら感じさせる情景を優しくゆっくり見せてくれていた。

ストップモーションと言えば出来すぎかもしれない。微速度再生かもしれない。ここという場面は言葉でなく、ゆっくり流れる映像として刻まれるものなんだろうな。その瞬間、幼い僕の心は実に晴れ晴れとしていた。幸せの絶頂を感じていた。修行僧が悟りを開いた瞬間の世界みたいにね。あのときから半世紀も生きてきて、いまだに目に焼き付いているんだ。

往き過ぎる車の赤色灯以外はモノクロ映像として脳に刻まれているから不思議だが、幸せな感情が強まると“刻とき”がゆっくり流れていくような気がする。違うだろうか。今夜は講座用に原稿も書いて来たが、筋書きからは外れていくもんだなあ。わかってくれた? みんなに何を伝えたいのか。自分でも筋道がわからなくなってきたけど、こんな機会だから俺の遺言だと思って聞いてくれ。

人には人生を左右するような局面で、特別な風景との出会いがあるものだ。ふと遠くへ行きたいとか、カメラをぶら下げて知らない町を歩いてみたいとか。でも、僕らが写真のジャンルにこだわっていては見失う風景があるんだとも思っている。うつろう感情を定着させる力を写真は持っている。

例えて言うなら、気が乗らない一日を持ったとしよう。きっと部屋を出ずにごろごろしているだけの自分がいるはず。それを一枚の写真で表現するくらいに「写真生活」を送ってみてほしい。たまには自分を見つめ直すことだって写真は手伝ってくれる。

話は飛ぶが、お客さんを撮影していて、良い表情を捉えられたとき、撮影者としても喜びを感じるよな。相手の(まばた)きが多くて閉口してしまうこともあるが、呼吸が合ってくるとその瞬きがゆっくり感じられるなんてこと、経験ないだろうか? 他人に見えないものが僕らには見えるんだからな。カメラマンには別の時間軸があってもいいと思うよ。

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