第三章

「真希ちゃん、お待たせ」

私がしばらく言葉を発せずにいると、彼女が怪訝な顔で「どうしたの?」と顔を覗き込んだ。

「あ、えっと……あんまり綺麗だから、見惚れちゃって。入ろうか。予約、ありがとね」

「いいえ。あなたも、とっても可愛いわ」

そう言って私の肩を抱き、頭をくっつける。頭や脇からじんわり汗をかくのを感じた。

予約されていたのは個室のソファ席で、隣り合って座るようになっていた。一面ガラス張りの向こうには海が見渡せる。まだ夕陽が水平線の上に真ん丸と浮かんでいて、海面がオレンジ色に輝いてまぶしかった。腰を落ち着けた時、ふと彼女のいい匂いが鼻をかすめ、それに息をのむ自分が何となく悪いことをしているような気持ちになって、耳の奥で心臓の鼓動を感じた。

それまではカウンターを挟んでのコミュニケーションだったから気づかなかったけれど、彼女はとても、スキンシップが多い人。頭とか、肩とか、腕とか……とにかく、よく触る。

プライベートでの彼女の表情は、仕事中とは全く違うものだった。特に笑った時の表情が、無垢な少女のよう。私にはビールなんて麦茶くらいの感覚だったけれど、彼女の貴重な表情を私だけに向けてもらっていることが嬉しくて、普段よりも酔いが回った。

しばらく食事と会話を楽しんだ頃、いつの間にか陽は沈み、間接照明に照らされたテーブルの向こうには、月明かりに照らされた真っ黒な海が静かに波立っている。身を乗り出して左右を見渡すと、せり出した海岸線に沿って、山の輪郭と住宅街の夜景が見えた。

しばらく外を眺めていると、安奈さんが私のワンピースを軽く引っ張り座るよう促す。勢いよく席に着いてしまった私を、彼女はスマートに後ろから支えてくれた。彼女の腕と指の感触に、腰のあたりがじんわりと熱くなり、今まで味わったことのない不思議な感覚を覚えた。

その後しばらくたわいもない話で笑い、最近また私がママさん女医から嫌味を言われたという話から、ふと気になって聞いてみた。

「安奈さんはさ、結婚したいと思った人、いなかったの? こんなに美人だから、イケメンでも何でも選びたい放題じゃん」

彼女は箸を置き少し目を伏せ、いたような、いなかったような……と微妙な返答をした。

「安奈さんの恋バナ、興味あるなぁ。そういえば、こういう話したことないね。聞きたぁい」

手をマイク代わりにして、彼女に向けてみた。

「……あんまりそういう話、得意じゃないのよ。ごめんね」

彼女は私の手を握って膝に戻しながら、やるせない表情で微笑んだ。

その表情を見て、調子に乗った自分を心底悔いた。

「いや、こっちこそ、ごめん! うん、違う話にしよ!」

「うん。ありがとう、真希ちゃん」

そう言って彼女が私の肩を抱き寄せた時、私がバランスを崩して、彼女に膝枕してもらう格好になってしまった。仰向けで目が点になった私を見て、彼女が声を出して笑った。私もつられて、鼻をこすりながら、へへっと笑った。よかった。

そういえば、安奈さんが私と三つしか違わないことも判明した。外見からすれば納得だけど、彼女の大人っぽい雰囲気から、とうに四十歳を超えているものだと思っていた。