唐の時代も十四代憲宗の頃になると、国家統治の基盤として長く運用してきた律令制度は疲労硬直化を来し、不要な役職の増設や増員、日雇い職員の正規雇用化が進み、官吏の資質も低下、統治機構は肥大化して効率の悪化を来しており、無駄な経費で膨張した財政は、破綻状況に追い込まれていた。

体勢の長期化はそれだけに留まらず、広い国土の各地に赴任させ、長くその地域に留まった官吏や豪士は、徐々に中央の権限を移譲させ、(はん)(ちん)(節度使)として権力基盤を固める構図ができあがってしまった。富と権力、軍隊を蓄えた有力藩鎮は、唐からの分離独立を唱えて、各地で内乱を起こすようにもなった。

皇帝直属の禁軍(軍隊)を持たないこの時期の唐王朝は、藩鎮の謀反を鎮圧できぬまま傍観するしかなく、地方からの税は減収の一途をたどり、財政は逼迫(ひっぱく)していた。唐王朝が禁軍のない異常な状態となったのは、唐王朝九代玄宗が安史の乱に敗れ、軍が壊滅した時に始まり、その後、軍を組織する財力がなく、各地で勃発する戦乱に対応する術もなく過ごしていた。

そのため農地は各地で戦場となり飢饉が発生、困窮した民衆は荒れた定住地を離れ、重税や兵役からも逃れて、難民となって流動するようになっていた。難民の増加はこれまでの唐王朝の戸籍を有名無実化し、王朝の徴税基盤、租庸調(そようちょう)を崩壊させてしまった。

宰相李吉甫は財政を立て直すため、徴税の基準をこれまでの()から土地(・・)に換え、税の物納を廃止、銅銭による銭納を義務化する両方税を徹底させ、同時に塩、茶、酒などに掛ける専売税も総て銭納に替えさせた。

両方税には広大な国土から物納として徴収した穀物の運搬や保管に要する膨大な経費を削減させ、年々の作柄に影響を受けずに税が徴収でき、未収を減らす効果もあった。

憲宗は両方税で得た財を用いて、(しがらみ)がなく金で動く命知らずの異民族や没落した農民を傭兵として集めて、十五万の強力な軍隊を創設し、新たな禁軍を用いて長安周辺の藩鎮を服従させることに成功、唐王朝復興の道筋を作った。

宰相李吉甫の息子として生まれた李徳裕は、幼い時から英才教育を受け、名門貴族の子弟だけが通うことを許された(すう)文館(ぶんかん)を卒業、官吏の登竜門である科挙(かきょ)を受けず、貴族の特権により任官したが、父親の姿を見て育っており、幅広い知識を身に付け、実務に優れた官吏だった。

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