学校から帰ってくると家の中は真っ暗だった。

ため息をつきそうになったけれど、かろうじて飲み込む。

まず玄関の電気をつけてママがいることを確かめた。モスグリーンのフラットシューズが行儀よく並んでいる。洗面所で手を洗ってからママの和室を覗いた。白い掛け布団が、こんもりと丸く膨らみ暗闇の中に浮かんでいるようだった。静かな寝息が聞こえる。ふとテーブルの上を見るとキューブの六面ともバラバラに移動されていた。私はめげずに完璧な微笑みをする。私はママが大好きだから。

このキューブ型の回転パズルはパパからのお土産だ。ママには今彼氏みたいな人がいる。でもママはまだパパのことが好きなんだと思う。ママは自分の気持ちに嘘をついていると思う。

キューブ型の回転パズルをそっとテーブルに戻す。

夕食は卵焼きでも作ろうかな。豆腐とわかめのお味噌汁も作ろう。空腹は生きてる実感が湧く。

きっとママも、もう少ししたら起きてくる。野菜が足りないわよ、なんて言ってもう一品作ってくれるだろう。

どこからか卵焼きの匂いが漂ってくる。これはあの人の作る卵焼きの匂いだ。ああそうか、あの人が帰ってきたんだ。麻子と台所にいるのだ。私は幸福な気持ちで目覚めた。しかしここは現実だった。板張りの天井。独りのベッド。ベッド横の賑やかなテーブル。あの人のくれた微笑みの立方体。

扉の隙間から台所の明かりが細く針のように差し込んでいる。麻子が台所で調理している音が聞こえる。麻子はあの人の作る卵焼きの味を一体いつ覚えたのだろう。そう思った途端、私の両目からは涙が流れ落ちてきた。

麻子は美しく健康に成長している。こんな素晴らしく幸福なことが(ほか)にあるだろうか?

私はベッドから起き上がり畳に足を下ろした。

麻子と共に生きていくためには先ず夕食を取ろう。

立ち上がり明るい台所へと続く扉を開ける。

麻子が振り向く。

目尻にあの人の面影をにじませて。

完璧な微笑みで。