(3)精神的いのちの創造

無機物質の世界から生命体が生じてきたことや、生命体が合目的的進化を果たしてきたいきさつは、偏に大自然のナチュラルな営みによるものでした。やがて人間は大自然のナチュラルな営みによって、自ら思考し、自らの価値観で、自らの生き方を模索できる「精神的いのち」をも授かったのです。

精神的いのちは、大自然の条理に則って自ずからにして培われて、自ずからにして拓けてゆく生理的いのちや生物学的いのちと違い、人間の育つ環境や自己努力によっていかようにでも培われていく人間独自の後天的素養としてのいのちです。後天的素養とは、大自然の自ずからなる力のみに頼らないで、人間自身の育ちや学びによってどのようにでも培われていく人間力のことです。

野の生きものたちはレベルⒶⒷの先天的資質だけで生涯を送るわけですが、人間はレベルⒸのうまく生きてゆく素養(知識技術的・適応的行動)やレベルⒹのよく生きてゆく素養(人格的・創造的行為)を駆使して急速な進化を遂げてきています。このレベルⒸⒹの素養こそが人間独自の「創られてゆくいのち」としての「精神的いのち」ということになります。

わたしたちは200万年前まではヒト族の人類でした。それがたった199万年で現在のような精神的いのちを備え持つホモ・サピエンスに進化したのです。この後天的素養としての精神的いのちによってこそわたしたちは人間になれているのだということです。この精神的いのちによってわたしたち人間は、これから先も果てしない進化の可能性が約束されているということです。

しかしながらこの精神的いのちは、月日の流れに乗って自ずから拓けてくる生物学的いのちと違い、人間の後天的努力によって彩られていくいのちなのです。人間の考えようによって右にも左にも自在に仕向けられていくいのちなのです。

200万年前に大脳新皮質を授かってからの人間の歴史は、この大脳新皮質の力で彩られてきているのです。冷静に振り返ってみると、功罪数限りない歴史を刻んで今日に至っています。すべてを美化することもできないし、すべてが悪かったとも言えません。