Ⅲ 間奏

これらのことは、本当にはるか遠い彼方の記憶なのでしょうか。ですが、あまりにも鮮明に脳裏に浮かんできたのです。どこからかの情報を受け取ってしまったのか、真偽はわかりませんが、こんなにも素晴らしい兄妹愛を体験できたことを、わたしは誇りに思います。

現在、私には年の離れた弟がいます。私よりもずっと真面目で努力型の弟です。間違いなく父譲りの性格のようです。家庭の設定も時代も違いますが、弟への厚い信頼と尊敬は自負できます。両親が他界し、唯一の身内です。いつも優しく気にかけてくれるやさしい弟へは、ただただ感謝しかありません。いつも本当にありがとう。

あるとき、お兄ちゃんと縁深い方と私を含め3人で、珈琲屋さんでお茶する機会がありました。なにげなく話をしていたのですが、あ~、これは親子水入らずの時間だなあとふと思った瞬間がありました。一瞬にしてワープしたといえばいいでしょうか。そのときの時代では、お兄ちゃんが母親で、私を含めたふたりは姉妹で母子家庭だったようなのですが、相当に母親を困らせてしまったいきさつがあったように感じていました。

「もう、あなたたちは、私の手に負えないわ」

そこまで言わせてしまったくらいのやんちゃな姉妹だったみたいなのですが、母親だったお兄ちゃんは、それでもありったけの愛情をかけてくれた、そんな状況を察知できました。

たとえ100%お互いに分かり合えなくても、問題が生じることは少ないように思います。感覚をはじめ、思考や得意・不得意もさまざまです。命丸ごと、存在していることが素晴らしいのだと、思えませんか。

今生での3人の設定は血縁関係もなくまるで他人さまですが、でもお互いの立場を越えて認め合い、尊重できる関係性が存在していることに気づけました。出会って数か月。ご縁が深いとは、このようなことをいうのでしょうか。命の旅って、面白いですね。

ところで、時間は本当に存在しているのでしょうか。ときを刻む時計というものが、身近にありはしていますが、「時間が経つ」という感覚は、ひとそれぞれのように思います。同じ1分のはずが、妙に長く感じることもあれば、逆に短く感じることもありますし。同じ場所にいても、感覚はさまざまなような気がします。この世に生まれ、心臓が止まるまでの寿命。その間に体験することは皆、違います。

目には見えない命という意識体、あるいは魂と呼ばれるものが、さまざまな感情や止まらない思考と選択した行動をとおして、学び続けていることは何なのでしょう。やはり

「人間とは、愛とは何ぞや」

ということになるのでしょうか? やさしさだけが愛だとは思えません。だれかを憎んでしまうことも愛そのものなのかなと思えるようになりました。心の奥に、愛が隠れているだけなんだと思います。その愛を、思い出す。また、それを表現していく過程も愛。そうすると、すべてが愛なんだ! そんなふうに思えたら、目に映る景色は、世界は、どんなふうに見えてくるでしょうか。よかったら、ぜひ想像してみてくださいね。

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