12 東北大学での研究

当時の富士製鉄には、留学制度があった。海外留学制度と国内留学制度である。本社人事部が主体となって、候補者が選抜される。

広畑製鉄所に配属された者から、フランスへ一名、東北大学へ筆者が選ばれた。もともと理学部出身で工学の勉強をしていなかったので、いい機会であった。これには上司の中に東北大学工学部金属工学科にご縁のある方が居られた幸運もあった。

派遣先は金属工学科の鉄冶金研究室(的場幸雄研究室)で、与えられたテーマは「溶鉄中の窒素溶解度に及ぼす第三元素の影響」であった。窒素の挙動は、鋼の性質に大きく影響し、その制御は重要であった。不破祐先生が海外研究のため、直接指導者は万谷志郎先生であった。

四年生が配属され、卒論作成も兼ねて実験を手伝ってくれた。今読み返しても、分析法など基礎的な考察から始まって、各元素を添加しながら、地道な分析を積み重ね、その挙動を解析している。よく研究をしている(のちの千九百八十八年、1988に、国連工業開発機関応募の際の推薦文を頂く端緒となっている)。

鉄冶金研究室には、家族的な雰囲気があり、的場先生宅での懇親、スキー、野球、柿もぎなど楽しい集いが催された。卒業後、富士製鉄、八幡製鉄、日本鋼管など鉄鋼企業へ就職する者も多く、その後業務を通じての交流も続けられている。的場先生は退官後、富士製鉄副社長になられた。不破先生は退官後新日本製鉄の顧問になられ、筆者はお迎えをした。

東北大学での研究を終えた頃、筆者の身柄について、幾つかの議論があったようである。東北大学に残る、発足したばかりの富士製鉄中央研究所へ行く、古巣の広畑製鉄所へ戻る、という話であった。東北大学の一部が青葉山へ移転する話が出始めた頃である。緑豊かで歴史あり、文化あり、伝統ありの都である。恵津子との新婚生活など仙台に多くの思い出を残し、結局古巣である広畑製鉄所へ戻った。

東北大学、富士製鉄に提出した研究報告