【前回の記事を読む】生まれ育った東京を離れて姫路へ…富士製鉄入社当時の思い出

第3章 富士製鉄、新日本製鉄の頃

製銑研究室とは高炉反応と製鉄原料に関する研究をする所で、研修テーマとして「高炉装入物の熱間性状特性」を与えられた。

当時すでに開発されていた耐火物の高温での性質を研究する装置を改善改良し、高炉ガス成分である一酸化炭素ガスや水素ガスの組成と温度曲線とを、溶鉱炉内と似た状態にして、鉄鉱石から鉄になるまでの性質の変化を調べる装置を開発した。上司である神原健二郎氏が担当されていた研究を引き継いだ。

実験助手として何人かの人に協力してもらったが、中でも奈良工長には、器具の製作やら実験の細かい操作などを大学を出たばかりの何も知らない筆者に親切に教えて頂いた。その研究の成果を学会で発表し、それが上司である神原氏の博士論文の基礎となり、その恩に報いることが出来た。

それまで高炉で使われる鉄鋼資源は化学成分を主体に評価されていたが、高炉生産性には、高炉内でどのような挙動をするかを解明することが、必要であった。実験室内にガス成分、温度など高炉内と類似した設備に改造し、鉄鉱石がどのような膨張収縮し、化学変化するのか解明した。

世界には何百という鉄鉱石銘柄があり、その採掘位置によって、性質が異なる。それを丹念に調べる気の長い研究である。今で言う、シュミレーターを開発し、それを用いた研究である。溶鉱炉の形は世界どこでも似た形をしている。経験と積み重ねた先人の苦労の結果であろう。

しかし筆者のこの研究によって、溶鉱炉の形の合理性が裏付けられた。新たに溶鉱炉を建設する場合、これまでの溶鉱炉の実績と操業性とを徹底して調べ、常に改善しながら、理想とする設備仕様を検討してきた。明治以降の近代式製鉄法の導入以来の先人達の積み重なった経験則の偉大さを認識した。

実験設備についても同様である。改善を重ね、実験を繰り返す間に、幾つかの新規現象も発見した。それらの知見を操業者の経験と対比しながら調べることによって、これまでの操業者が有する現場的知見を理論的に解明出来た。次第に研究範囲は広がり、焼結鉱やペレット鉱石、新規に開発された鉱山資源などの未利用資源にも研究対象が広がった。

つまり、溶鉱炉原料の冶金的熱間性状評価とその性質を具備した適性原料製造法の確立にも貢献出来た。世界各地から輸入される多岐にわたる原料の組み合わせ使用のための指針(原料配合計画)を作成することが出来た。これにより当時の日本鉄鋼業の原料確保のための対象領域が広がり、経営上のメリットが大きく増大した。

つまり、原料と高炉操業技術の適正なドッキングが図られたことは大きかった。

これらの活動が、後年発明考案や社内表彰などに結びついた。小生が広畑に居るので、父がこの地方の演奏旅行に来たついでに立ち寄ってくれた。広畑製鉄所整員課のH掛長のご尊母が父の故郷、柳川のご出身で父と懇意であったことから、父の広畑製鉄所構内見学の折には色々と便宜を図って頂いた。新入社員としては光栄なことであった。

官営八幡製鉄所から、広畑製鉄所に転勤してきた方も多かった。そのような九州出の幹部と父とは九州弁で会話をしていた。嬉しかった。

研究所、高炉、岸壁など製鉄所の主要設備を案内し、音楽しか知らない父もその規模の大きなことに驚いたことであろう。帰り際に金額を忘れたが、父への小遣いをポケットに無理に入れたのを覚えている。結婚をし、広畑の社宅に新所帯を持ったあとも何回か来てくれた。

子供達を動物園など名所に連れて行ってくれた。広畑の西に室津という所がある。神武天皇の東征や、参勤交代、お夏清十郎で有名である。漁港であるので活きの良い魚がよく取れる。父はそのような所で、酒を飲みながら、店の主人と話をするのが好きで、今でいう気配りの出来た優しい人であった。もう一度と思うが、もういない。

広畑製鉄所製銑研究室時代、昭和三十四年春(1959.6)