入学試験の成績が五〇五人中、びりに近いことを知った私は、鬱屈した気持ちを晴らすべく一年生の一学期、夏休みを勉学に励んだ。効果はてきめんで夏休み明けの実力試験で五〇位に入った。

二学期の父兄面談で、担任の先生から前途洋々と聞かされた母は初めてのことでことのほか喜んだ。

一方私は四五〇人抜きの成績に安心してしまいそれ以降は鳴かず飛ばずであった。

公園での屈辱は一年半の暗い毎日と大げさに言えば男の生き方と、勉学への自信を与えてくれた。苦難があっても意地と不屈の闘志が有れば道は開けるということだろう。

その当時は心の持ちようの大切さには気がつか無かった。

担任のT先生はインパール作戦から奇跡的に復員し余生はおまけと言い続けていたが、漢文を教える傍ら労作『日本語の語源』を顕し角川から出版、現在もネット上で流通していることを知り敬服の一語である。

T先生は私の正に恩師で結婚式にも御出席頂いたが、巻紙に書いた祝辞を粛々とそして朗々と「今井家に桃の花が咲いた……」そのくだりから感極まって涙してしまいその後の文言は覚えていない。その先生から授業で教えられた「鶏口になるも牛後となるなかれ」は私の人生を決定づけたといっても過言ではない。

ただ蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘るとは言うがこの稿を書き終えて人生を顧み、易きに走った自分を思う。

だが私は先生には恵まれた。中学校の時は二七〇名の中で男子では唯一人、一年から三年まで一組、F先生に三年間担任して頂いた。就職後もお世話になった。

三年生になった私は九組理数系進学組に選抜された。そうそうたるメンバーが集まり京大等国立大学入学組が多数をしめた。二年生の時の喧嘩以降今一つ気が乗らずあっという間に受験を迎えた。

案の定浪人になった。家は狭く勉学にいそしむ環境には無かった。

母に無理を頼み京都の予備校に入った。その年の夏夕方鴨川の川土手を歩いていると、同窓の九組のKと出くわした。Kは優秀で気位が高く、同じ組でも劣等生の私などとは話をしようともしなかった。

が、異郷の地での再会に意気投合し、その場で私の下宿に変わることを勧めた。一緒に生活をし始めたものの反りは合わず、やがてお互い若気の至りで意地の張り合いになり、愚かにも勉強しないことを張り合った。

結果は明白でKは現役でパスした二期校まで落ち、本人は郷里に戻り母親はショックのあまり寝込んでいた。

私はと言えば受験した七校全て落ち四月末郷里に帰った。母は受験が終わったにもかかわらず私からの連絡は無く心配のあまり、私の友人宅を訪ね歩いたが行方知れず、もう行く当てがないので、私の片思いだった女生徒の所を訪ねようと思っていた矢先だったと目に涙を一杯ためて私を叱った。

今思っても申し訳ない気持ちで身の縮む思いがする。