【前回の記事を読む】連絡のない息子…心配した母の行動に「申し訳なさに身が縮んだ」
 

学生時代

当時の大学進学率は七%程度、二浪は珍しく人目が気になった。背水の陣の思いで今度は七時起床八時から二四時まで食事の二時間を除き一四時間、時間割を決め兎に角頑張った。日曜日は休息日。京都ではつかみ合いの喧嘩になりそうだったKともお互い認め合った感じとなり、彼は私が勉強のため借りている下宿に度々やって来た。

八月力試しに京大の西日本模試を受けて見た。受験生約三万人中、一九四番の好成績で二〇〇番の番付に入り名前が表示された。Kは番外だった。私は生涯でこの時ほど嬉しかったことは後にも先にも無い。とにかくKに勝ちたいその思いで勉強した。しかしそれでもKは私をライバルとは認めて無かったが、私にはライバルでKとの鴨川での遭遇が私の原点と言っても良い。

ただ返されてきた答案用紙をチェックしたところtemporaryとtemperatureを間違えて和訳していたが二〇点加点されていた。私は採点者に恵まれた。しゃくし定規の採点者ならば形容詞と名詞を間違えただけで〇点と採点されても可笑しくなかった。加点が無ければ進学校も違い別の人生を歩んだに違いない。人生の機微である。このことはKにも話さなかったように思う。

この成績を見たKは、地方の国立大学受験を考えていた私に、それは勿体無いと彼の志望校の難関大学を勧めてくれた。Kと私は同じ大学を受験し共に合格。感謝である。

しかし人生で之ほど勉強したこともない。この時迄は言外に自分には能力はあるのだが「やらなかったから出来なかった」とうそぶいていた。これは論理の破綻で「やればできる」と考えれば、やらなかった時点で自分は能力がないと宣言しているようなものだということがよく判った。粘り強くやり続けることが即ち「能力」なのだ。とはいえ私はその後もコツコツと粘り強くは苦手だった。

大学生活はバラ色でS市の人口は五〇万人ほど。多からず少なからず緑も多く学生は大事にされた。入学して間もなく特待生の募集に応募した。当選し月八〇〇〇円支給された。当時二食付き六畳の間で月七〇〇〇円。助かった。

二年生の時にはダンスでKと知り合い付き合い始めた。切れ目の長い大きい目、色白で面高中肉中背、朗らかで三歳下、広瀬川のほとり、川内の大学キャンパス、植物園、八木山、七夕の時の浴衣姿の彼女との塩釜神社等々思い出は尽きることが無い。Kと結婚すれば私の人生はベストであった。

学業は教養課程のどの教科も全く新鮮さに欠け退屈だった。入学式、学長が歓迎の辞で

「大学は求めなければ何も得られ無い」

と激励されたがその通りだった。私には教養課程では学ぶべきものは見つけられなかった。

一方でさしたる理由もなく自己嫌悪に陥り、引き籠り状態となり、太宰の書は全て読破し小説もよく読んだ。当時の国立大学の経済学部はマルクス経済学が主流を占め、私が入った工業経済ゼミは名称とは裏腹に指導教授はマル経だった。私の母は頭から赤はダメと私に言い続けていたが、実際にマルクスの言う共産主義の平等の考え方や当時の労働者階級、まさしく我が家を見ると社会変革の必要性を感じ共鳴できた。