団塊の世代の私の経歴

親から聞いた現実ですが生まれは江戸川ですが、第二次世界大戦末期で米軍の東京空襲の爆撃を避けて、やっとの思いで日光に疎開していたが戦後疎開から帰ったら家は跡形も無くなっていました。

私の育った六郷土手は京浜工業地帯の中心から離れた多摩川河口近くですが疎開地栃木県日光から戻ってみると、太平洋戦争末期に米軍のB29で連日執念深く壊滅的までに爆撃を受けた痕跡を残していた所でした。

被害が甚大で破壊と焼け跡の広大な瓦礫の広場がそこ等中に爪痕を残して一面原っぱとのことでした。今この本を読んで頂いているのが私の先輩でしたら、私は貴方のおかげで存在している事になり後輩でしたら私のおかげで貴方は存在している事になります。

例えば私が新婚ホヤホヤで急いで帰路に向かってる時に脇の車道から消防車が鐘を鳴らして迫ってきたら私は一瞬振り向きます。それにより帰宅が数秒遅れて、新婚の営みも時間が変わり生まれて来るべき子供も違ってきます。自分を取り巻いている全てが互いに密接に繋がっているという事を念頭に以下をお読み下さい。

ところで私の意識の始まりでは、爆弾の跡は既に雑草、葦などで囲まれて大小形さまざまな池になっていました。期限無しの無条件降伏で奪い取った大日本帝国の厚木基地にコーンパイプとサングラスで降りたったマッカーサーでお馴染みのアメリカを中心とした国連進駐軍が統治に必須のインフラは無傷で残したのでしょう。レトロで芸術性のある重厚な六郷橋は無傷でした。

現在は様変わりして冴えない一般的な橋になってしまいました。皆さんご存知大学駅伝でおなじみですね、首都東京と神奈川県川崎を繋いでいる第一京浜国道(東海道六郷川の渡し)の広大な道路には信号も無く、車もまばらで排煙もなく、空気は澄み渡り秋の日の晴れた夕方には真っ赤な夕焼けを背景に土手の上の水溜りで赤とんぼが群れて楽しく遊んでいました。

当時は土手の上にはアスファルトの舗装は無く、雨の日はぬかるみ状の土のままでそこいら中に自然の水溜りが出来ました。おかげで泥いじりを楽しむことも出来ました。