先日聖使修士会発行の「聖使」という新聞を見た。尊敬する木俣神父が管区長会議のためアフリカを旅されたという記事の中に「聖貧を尊ぶ修道者には神への感謝と謙遜を学ぶため、一番良い国と人々の中に住んでいる」と、飢餓で苦しむアフリカでの生活をむしろ喜びをもって過ごしたと報告されていた。

あの頃の筆者の生活環境は、当時は分からなかったが、教科書以上のものを心に与えてくれた。又それを理解出来る人間になるプロセスであったとも思う。聖貧は謙遜に通じるのである。大切な教えだ。感謝と謙遜の気持ちがいつもあれば、不平や不満も起こらず心が充実した生活になるのだろう。自分の置かれた環境を最大限に積極化することが必要なのであろう。

のちに国連機関に勤務し、途上国への援助支援活動に従事した。多くの貧困社会を見た。貧困から清貧へ、それから聖貧に生まれ変わる困難さを体験した。どんな環境に置かれても、感謝の気持ちさえあれば、それが自力を与えてくれ、希望、再起に繋がるように思う。

ベトナムからの難民としてサイゴン陥落後、ボートピープルとして、数回の海上拿捕、留置を経験した友人が居る。沢山の殺戮、拷問などの中で、生きていること、暗やみばかりの留置場の上部壁に光が一筋差し込むことの感激と感謝などを一緒に旅を通じて彼から学んだ。

カトリックの家庭で育った彼の故郷は、政治体制の変貌で変わってしまった。彼の精魂注いで大切にしていた建物は、娯楽施設になっていた。彼は北ベトナム軍がサイゴンにある米国大使館に突入した時、まだ少年であった。大使館前の道路に立ち、戦車の突入を見ていた。彼の心中は、焼け跡に立ちすくんだ子供時代の筆者、そのものであった。

のちに国内外のトイレを掃除する活動に参加する機会を持った。犯罪の多発する地域で犯罪が減る事実を体験出来た。人が嫌がるトイレ掃除をすることによって、心に充足感が生まれ、感謝と謙虚さが増すことを学んだ。高年齢になって、海外までトイレ掃除に行くことに抵抗感があったが、相手国市民との交流が持て、企業時代、国連機関時代以上に満ち足りた旅であった。

年齢を重ねても常に謙虚で居ること、感謝の気持ちを持つことが重要であることを再認識させられた活動であった。