【前回の記事を読む】国内外のトイレを掃除する活動?参加して気付いた「意外な事実」

第2章 麻布中、麻布高、東京大学の頃

東京大学とその前後

浪人中は、大塚にある城北予備校に通った。城北予備校は都内にふたつあり、本家争いをしていたが、兄が通っていたことと、こちらが本家であるということでここに落ち着いた。

常に席は最前列を確保する方針を立て、一番早く教室に入ることを常とした。麻布からは辻賢次郎君が一緒であった。早稲田商学部教授の高見清、高見豊両先生に数学を習ったし、英文解釈が井口先生など学力をつける指導力のある先生方がそろっていた。教室は大塚にある戦前の西洋館でトイレなどが狭く古い建物であった。

後に音楽評論家になったG・W君、駒場で同級になるM・Y嬢も居た。駒場ではそのご縁で畑君(文一)、藤井君(文二)らと一緒になり、辻賢次郎君(文一)らと読書会を主宰し学部横断の勉強に励んだ。

東大合格の前年、つまり昭和二十八(1953)年夏に恵泉女学院英語教師であった長姉睦子が渡米、大阪発の日本郵船の貨物船で行った。関西方面に藤田総勢九名が見送りに行った。関西の親戚、木田・岩越・姉川・側垣家などに伺ってお世話になった。

その間も浪人帽をかぶり、教科書類を手放さず集中していた。この予備校通いでかなり学力が上がったと思う。定期的な模擬試験では常に上位に入っていた。最後には「藤田君は東大、一橋、京大、東工大どこでも合格出来る」と予備校面接で言われるレベルまでに学力は向上していた。自分でも自信みたいなものが出来上がっていた。

受験大学は家庭の経済事情から東大一本しか許されず、科目は国語、英語、解析一、解析二、化学、生物、日本史、世界史の八科目を選んだ。

歴史科目については兄の古い教科書しかなかったので、それ以降の最新事件は記載されていないので自分で補った。漏れている事件を調べる必要があった。その行為自体が学びであった。不足することによって、多くのことを会得する経験はその後に人生に役立っている。つまり不足することで、工夫が生まれるからである。つまり貧困がもたらす利点であった。