政権樹立

昭和十二年一月二十二日。千代田区の霞ヶ関から半蔵門に向かう皇居のお堀端に陸軍の参謀本部があり、その地名は一般には三宅坂(みやけざか)と呼ばれていた。陸軍の作戦や用兵の中枢である参謀本部の会議室では、作戦部長代理の石原莞爾大佐が打ち合わせを行っているところだった。

「それで、事態収拾のメドが立たんというのか」

「そうだ。相手が全面的に折れるなら別だが、中途半端な妥協はとても無理だな」

広いテーブルを隔てて語るのは、陸軍省の軍事課長を務める(まち)尻量基(じりかずとも)大佐だった。前日の一月二十一日、第七十四帝国議会で、午後一時半から衆議院本会議が開かれた。そのとき、馬場鍈一(ばばえいいち)大蔵大臣の財政演説に対し、野党の政友会から浜田(はまだ)国松(くにまつ)議員が質問に立ち、軍事費を大幅に増額しようとする陸軍を非難する演説を行って、寺内(てらうち)寿一(ひさかず)陸軍大臣と真っ向から衝突した。

議場は大荒れになってとうとう浜田議員は「速記録を調べて、自分が軍隊を侮辱した言葉があれば割腹して謝罪する。もしなければ陸相が割腹せよ」と発言して、いわゆる割腹問答にまで発展していた。

その夜の緊急閣議で寺内陸相は、議会を解散して政党に懲罰を加えるべきだと強硬に主張した。何とか取りまとめようとする広田(ひろた)(こう)()首相の努力を押し切って、事態は内閣の総辞職へ向かって動いていたのである。

「まことに結構じゃないか。外務省出身の広田首相では、これからの軍備大増強は、とても手に負えんよ。そろそろ倒閣運動にかかろうかというところだったからな」

石原はこともなげに言い放っていた。彼は現在、作戦部長代理の立場で部長は空席だが、石原が間もなく少将に進級すれば、正規の部長に就任することになっている。昭和六年九月の満州事変では、石原は関東軍の作戦参謀として縦横に手腕を発揮して、満州国を成立させ事変第一の立役者となった。

その後、第四連隊長を経て、昭和十年八月から中央に戻り参謀本部の作戦課長、十一年六月から戦争指導課長を務め、今年になって部長代理の職についていた。