太平洋上の樂園

サマリー

東京美術学校時代、仏画がきっかけとなり親しくなった友人と卒業したら米国やヨーロッパに10年ぐらい勉強に行こう、という壮大な計画を立てるも、友達の病気で反故となり、どうしたものかと思案していた最中の与作に渡米の話が舞い込んできた。それは東洋美術史の教えを受けた大村西崖教授から米国に渡った日本画の調査と模写をして欲しいというもので、依頼を受けた与作は卒業後、単身渡米した。

中でもボストン美術館に所蔵されている藤原時代(894─1185年)の仏画の模写が主たる仕事になっていたようである。これも何かのご縁と思い、米国で一緒に頑張ろうと約束していた親友の分まで頑張るぞ、と誓っていた与作の様子をうかがい知ることが出来る。

現代は飛行機で機内食を頂き一休みすればすぐに到着する便利な時代である。当時、渡航の大変さは誰が何をするにせよ強い志と覚悟を持って事に当たらなければならないほど過酷なものと想像される。

24歳の与作は、1916(大正5)年1月、天洋丸(貨客船、1万3454トン)にてハワイ経由サンフランシスコに向けて横浜港から出発。3等船室は船底の近くにあるせいか薄暗く、決して心地よいものではなかったようだ。

横浜港を出発して暫くすると目眩とむかつきにおそわれ、これは船酔いだなと感じたものの今さら引き返すわけにもいかない。船室が海面近くにあるせいか、潮の流れによるものか定かでないが、症状は治まるところをしらない。五臓六腑が口からしぼり出されるような気持ちの悪さは恐怖を伴って暫く続き、食事もとれず忍之一字で耐えざるを得なかったようだ。