儀式と演出

医師は客観的な姿勢が大事で感情移入は慎むべきだという教えがあり、その一方で共感、シンパシーを持つべきだという教えもある。現代医療で感情の入る余地は極めて少なく、診断、治療は高度に機械化された病院で息つぐ間もなく行われる。

皮肉にも医師がそのなす術を失い、死の世界への流れを押し止められなくなった時に人間同士として接する場が残されている。私は結局何も言えず、しばらくして踵を返して詰所に戻った。

「部屋へ行ったけれど、まあいいじゃないか。話し込んでいるし、身重だし、もうすぐ帰るよ、きっと」

私は詰所に戻ると独り言のように、言い訳するように、その日の準夜(夕方から深夜までの勤務)のリーダーに言った。彼女は私を一瞥すると「まあ、仕方ないですね」と少し呆れたように言った。このような時の対応は個人個人で異なり、規則に忠実な看護師からは非難を受けることもある。その日は比較的私に好意的な看護師でもあり、それ以上のことは言わなかった。

やがて消灯時間になり廊下の電気が消えてから、娘は父のいる空間にできるだけいたいような素振りで、振り返り振り返りゆっくりと病棟から去っていった。静まりかえった部屋には不規則な患者の呼吸というより喘ぐ音が、大きく響いている。

この人の50年に満たない人生の終末に自分が立ち会っていることは、考えてみればなんと不思議なことであろうか。心電図の音の間隔が次第に延びてくる。その時間の延びを私は本能的に察知し、まず対光反射を確かめるべくライトを瞳孔に当てた。左右共に散大しかけており、脳活動の終焉を示した。呼吸、循環中枢は不規則ながらもまだ働いている。

「ボスミン(強心剤、アドレナリン)の心注、用意しましょうか」

看護師が私の顔を覗き込むようにして言った。心注とは心腔内注射のことで直接心臓の中に強心剤を注射し、心臓の働きを高めることである。

私は首を横に振った。数日前から家族には何度も最期の時が近いことを告げ、砂時計の残りが少ないことを知らせていたので、家族は見送る準備ができていると感じていた。家族の様子を今一度見渡し「もう何もせず、そっと送ろう」と決めた。

看護師の表情には「何もしないのですか?」というやや非難、不満の色がうかがえた。癌末期の患者に対して心臓マッサージ、強心剤の注射等の蘇生術を行うことを我々は「儀式」と陰で呼んでいた。

なぜそのようなことを行うのか、みんなわかっているのだろうか。その患者に対して何か思い残し、後悔があるからそのようなことをするのだろうか。一秒でも長く心臓を動かすことが使命だと思ってするのだろうか。もはや、何も言わなくなった患者と黙って向かい合うことが怖くてするのだろうか。家族に一生懸命やったがだめだったと示し、お互いが最後に納得し合うために行うのだろうか。

その時間は関係している者すべてにとって「凝縮した濃厚な時」であり、どう演出するかも医療者の仕事であると思う。いろいろと処置をして精一杯努力したという思いを家族と共有するのも一つであり、この場合、身体や手を動かしているのであまり考えることはない。ただただ心臓が完全に停止するまで処置を続けるのみ。

流れに従う場合、何もしないということに耐えて死にゆく人を見守るエネルギー、かつ周囲を見渡し残される人への配慮を考えるというエネルギーがいる。