【前回の記事を読む】患者の最期の瞬間…残された家族のために医師がする「演出」

Passengers ――過ぎ去りし人たちへのレクイエム

最後に見た光景は?

静けさと沈黙が部屋に満ちている。

聴診をしようとしてかがみ込んだ時、胸ポケットに入れていたボールペンが床に落ちた。拾おうとして顔を横に向けると視線が男の目の高さに合った。この世を去ろうとしている人間と窓から見える少しかすんだ山が同じ視野に入った。

「ああ、この人が見た最後の光景はこれだ」と私は思った。

何の根拠もないが、そう思った。

ベッドサイドには家族が揃い、無言で男の手を握り、足をさすっている。

「先生!」という看護師の声で私は我に返った。見ると心電図は一直線になっており、呼吸も停止していた。

心臓マッサージをしようとする看護師と男の間に割って入るようにして、私は聴診し、頸動脈に触れ、最後に瞳孔にライトを当てた。瞳孔(どうこう)は大きく開いており、もちろん対光反射(瞳孔に光刺激を与えると瞳孔が小さくなる反応)もなかった。

そっと乱れた毛布を直し、注視する家族に「午後4時38分に亡くなられました」と低い声で告げ、一歩下がって手を合わせ、(こうべ)()れた。

妻と子供たちは冷たく静かになった夫、父の傍らに寄り添い、妻はそっとその手を握った。

この夫婦はどんなふうに出会ったのだろうか。そして、どのような時間を過ごして来たのだろう。私はその別れに立ち会って、二人にしかわからない時の流れを思った。

沈黙の中で妻は手を通して夫と最後の話をしているようだった。いろいろな出来事を反芻(はんすう)しているのだろう。楽しいことも悲しいことも喧嘩したことも、もう別れようと思ったことも、二人で共有してきたことすべてが、もうすぐ妻の記憶だけになってしまう。もし、あの世というものがあるならば、そこでまた話せる日までその記憶は閉ざされてしまう。

「しばらくご一緒にいてあげてください。またあとでうかがいます」

私は家族に告げ、看護師と共に今一度彼に手を合わせ一礼した。妻と子供たちは立ち上がって我々に深々と頭を下げた。

部屋を出てドアを閉めようとすると、後ろから嗚咽(おえつ)の声が響いてきた。

ドアの外はいつもと同じ、少し騒がしい病棟だった。ドア1枚を隔てて死者とその家族が別れを惜しんでいるなど想像もつかない光景だった。

看護師は小走りで忙しそうな表情をしており、休憩室では談笑する患者の姿も見られた。私は死亡診断書を書き終わり、家族が落ち着き病理解剖の話ができるようになるまでのわずかな時間に他病棟の患者を診ておこうと思い付き、階段を降り始めた。

そして段を降りるに連れて、男に関する記憶が薄れ始めていくことを感じていた。