【前回の記事を読む】医師の後悔…「最後の旅行」に出かける患者家族に投げかけてしまった“言葉”

Passengers ――過ぎ去りし人たちへのレクイエム

そんなある日、病床を訪れた私に、彼がかすれた声を絞り出すように言った。

「今日は気分がいいので散歩に行ってみたいのですが、よろしいですか?」

「いいですよ」と答えたものの、すでに彼は自力で歩行することはできず、酸素を積んだ車椅子が必要だった。

「私がついていきましょうか」と、ちょうど病室を訪れた看護師が言った。

その日は日曜日で病棟も落ち着いており、看護師が一人少々抜けても問題はないようだった。車椅子への移乗は看護師二人と私の三人がかりで行い、申し出た看護師が車椅子を押して廊下に出た。

彼は車椅子を押す看護師に何か話しかけ、彼女は腰をかがめて彼の口元に耳を寄せ、頷いた。私は見送りながら今日は窓から差し込む日射しも暖かいので、彼はきっと病院の周囲を散歩してくるのだろうと思った。30分程度で彼らは戻って来た。

ちょうど訪れた家族が手伝って彼はベッドに移った。

「お疲れさま。で、どこに行っていたの?」私は詰所に戻ってきた看護師に尋ねた。

「7階に行って来ました」

「外に散歩しに行ったんじゃないの?」私はちょっと驚いて言った。

「はい、自分の家が見える階まで連れていってくれとおっしゃったものですから」

「で、患者さんはどうだった?」

「窓から線路の方を一生懸命眺めて、ああ、あの辺りが僕の家だ、とおっしゃいました。そしてしばらくじっと見つめて、もういい……と」看護師と私はしばらく無言でいた。

「そうか、お別れに行ったんだね」

「きっとそうだと思います」

彼は死期を悟り、もう二度と生きて帰ることはない自分の家に、そして今まで暮らしてきた世界に別れを告げに行ったのに違いなかった。

しばらくして私は彼の部屋を訪れた。

「おうちは見えましたか?」

私の問いかけに、彼は余韻を冷まさないように、心に焼き付けた風景が色褪あせないようにとでもいうように目をつぶって答えなかった。しばしの沈黙のあと彼は目を開けて私を見つめ「先生、良くなりますか?」と言った。

不意の問いかけに私ははっとした。いつもの彼の丁寧な口調とはどこか違う。嘘は言わないでくれといった強い意思が伝わってきた。私は答える代わりに彼を見つめ、彼の手を握り、ぐっと力を入れた。かすかに彼が握り返してきたのがわかった。

私は手術の時からのことを思い浮かべながら、万感の思いを込めて、「頑張ってきましたが、もう残り時間はいくばくもないと思います」と手を握りながら心の中で言った。

きっと彼は「わかりました」と握り返したのだと私は感じた。彼は穏やかな微笑を口元にたたえて目を閉じた。