それからはもうどちらへ逃げるという考えはありませんでした。この(隣)組の避難場所は野間小学校だったので、とにかく野間街道へ出ようと家の門の前の小路を(北)西に向かい、突きあたりを左に折れて路地を数軒行ったところパンパン足もとへ(焼夷弾が)落ちてきます。

静子が危ない危ないと言うので、とにかくそこの家に退避した所、次から次へと大勢の人が入ってきました。二分位すると奥の方が燃えだしたので「奥が燃えだした、皆出んかい」と叫び、皆一斉に外へ出ました。(この場面は、私にも鮮明な記憶があります。その家は長屋で、入口の土間が奥の方まで繋がっていました。土間沿いに二間か三間あったように思います。私は一番奥に押し込まれていましたが、一瞬ドンという低い音がして奥の部屋の襖に何かが付着し次の瞬間それが燃え上がりました。祖母が叫んだのも聞いています。)

その内焼夷弾も落ちてこないようになり、裏通りをたどるようにして宝来通り(今の北宝来町)へ出ましたが、宮脇通りはもう真っ赤に燃えているので野間街道へは出られぬと思い、真直ぐに鉄道線路へ出ました。その時またドンドン弾が降ってきて、敬子とはピタッと寄り添って線路を越え、静子は男の子三人を連れて(鉄)橋の下のどこかに逃れたようでした。

それから名を呼び合い、道も無いので田の中の畔でも無いところを歩いてお不動さんの後ろに一軒あった農家に避難しました。蒲団が敷いてありましたがも抜けの殻でしたので、その一枚を防火用水に浸して火が降ってきた時の備えとし、休憩しました。

避難してくる人が徐々に増え十人余にもなりました。空には飛行機が乱舞し、地上はあっちもこっちも火の海でした。その内、目の前にあった実践商業学校の階下からちょろちょろと火が見え、やがて燃え広がり全焼して行く様をどうしようもなく見て居ました。

だんだんと夜が明け染め、とにかくその家を出て畦道をたどって線路まで出てみると、左手の方に大分家が立っているので片山さん(姻戚)の家も残ったと思い行ってみると、ご夫婦と二人の娘さんは無事で広小路の店で泊まり込んでいた上の娘さんだけが未確認という状態でした。

私は避難のとき履く為に出しておいた主人の短靴を慌てて履かずに裸足で飛び出したので、危なくてしようが有りません。そこで、片山さんのご主人の短靴を借りて自宅へ向かいました。あと一丁と言うあたりまでくると、電線は焼け落ち、地上には火種も残っていて男物の靴が役に立ちました。

家の方を伺い見ましたが焼け残った家は見当たらず、「アアモウコレハアカン」と観念しました。丹下さん(丹下健三氏生家)の蔵だけがぽつんと残っていました。自宅の辺りは炎こそ出ていないものの未だ火の海の状態で、有り合わせのバケツで数杯かけてみましたが焼け石に水ともいえぬ程の火勢でした。あきらめて引き返しましたが、気が立っていたせいか涙一つ出ませんでした。(戦災の夜の祖母の手記はここで終わっています。)

【前回の記事を読む】元航空自衛官が語る「戦災前の日常、怖かった記憶」の生々しさ