四月、越後の山々は幾重にも重なり合い、遠くの尾根や山腹にはところどころに残雪がまだら模様を残していたが、麓の村里はすっかり春のたたずまいを見せていた。茂が東三条駅から乗り込んだ急行「越路」は数時間後に清水トンネルを抜け、期待と不安で胸がはち切れそうな茂を乗せて上野駅に向かっていた。

数日後、茂は東京三鷹市にあるアジア・アフリカ語学院に入学した。二年間の中国語勉強のための住込み働きの生活が始まっていた。

従兄の店での住込み働きは決して楽ではなかった。根気を要する体を使う仕事だったが茂は歯を食いしばって働いた。

店は店内が百坪ほどの広さで世田谷「桜通り」の奥の端に位置していた。通りは駅方向からの一方通行となっており、住宅街の中の通りだったので辺りは都会の喧噪のない落ち着いた雰囲気だった。店の二階が従兄家族の住まいとなっていた。住まいの入り口は店の片側の階段を上ったところにあった。

茂には日当たりのよい小部屋が用意されていた。茂は毎朝六時に起床し、朝食を済ませ、七時に店を出て玉電(世田谷線)上町駅から下高井戸駅を経由し、電車、バスを乗り継ぎ八時過ぎに学校に到着した。午後三時頃まで学校で過ごし、四時頃に世田谷の店に戻り、店の作業白衣に着替えると茂はすぐ店に入った。

店の定休日は月曜日で、茂の自由に使える日だったのでこの日を茂は楽しみにしていた。語学院の級友たちと学校の帰りに、吉祥寺駅に隣接する「井の頭公園」を歩いたり、駅前通りで当時流行っていた「歌声喫茶」に出かけたりした。また学院は調布市内の名刹の「深大寺」から遠くなく、彼らと一緒に何回か自転車で寺の近くの蕎麦屋「時雨茶屋」に出向き、野草天ぷら蕎麦を食べたりした。

桜ストアーは地元で人気があり、繁盛していた。店内には従兄が扱う乾物や惣菜以外に八百屋、鮮魚屋、精肉屋、菓子屋がテナントで入っていた。茂が桜通り商店街の入り口に差しかかると遠くからでも店の前の人だかりが見えた。特売日の土曜日などは特に混雑し、店内は自由に身動きもできないほどだった。